The Project Theory Probe Journal

Issue 29
Jun. 30 2026

知能としてのプロジェクトを見い出したい

八木翔太郎

第5回 チームが学習するのではない、その逆だ

前号では、マイケル・レヴィンを通して集団知性における「自己」という単位を問い直した。彼によれば自己とは「どれだけ一つにまとまったか」ではなく「どこまで届き、応答できるか(認知の光円錐)」のことだ。チェスの駒が整合的なルールのもとで一個の戦いを織りなすように、ばらばらの部品が整合したダイナミクスを結ぶとき、その整合の及ぶ範囲が一つの「自己」として立ち上がる。そして整合を達成する道の一つがストレスだった。ストレスには「誰のもの」というラベルがついていない。だからこそ個を超えて伝播する範囲が1つの「自己」として立ち上がるのである。そして自己が大きくなるほど、同じ目標へ別の手段で到達するジェームズ的知性を発揮できるようになる。磁石は障害物で止まるが、知性は目標を保ったまま回り道を見つけるのである。

このようにレヴィンは、個と全体という対比で集団知性をわかりやすく説明してくれているのだが、ここでストレスが自他の境界を溶かすというだけなら、それは群れが立ち上がることの説明にとどまる。この大きな自己は、どう新たな応答ができるようになるのか。プラナリアが直面したのは、まさにそれではなかったか。すなわち、ジェームズ的知性がどのように達成されるのか。今回の問いはこの学習にある。

レヴィンらは、神経系を持たない遺伝子制御ネットワーク(GRN)(遺伝子どうしが互いの発現を上下に調節し合う網)でさえ学習することを示している。Biswasらとのシミュレーション(in silico)研究にて、ネットワークの特定のノードを「ベル」「餌」「応答」の役に割り当て、ベルと餌をペアで与え続けると、やがてベル単独でも応答が出るようになることを示した。犬と同じパブロフ的連合学習が、ただの分子ネットワークで起きたのである。だがさらに興味深いのは、これが遺伝子の制御関係(connectivity)と、各遺伝子が入力に応じてどう応答を決めるかという規則(Boolean function)の、どちらも変えずとも起きることだ。全く同じGRNは、フィードバックの循環の結果として、複数の安定状態を持ちうる(=multistability)。そして刺激は、異なる安定状態に移動させることで、系の応答可能性を変えてしまうのである。Biswasが引くのは磁石(強磁性体)のたとえだ。法則は不変なのに、磁化の向きは過去にかけた磁場の履歴で決まり、一過性の磁場でパチンと別の安定状態へ移り、磁場を切ってもそこに残る。覚えたことは、実体としてではなく、規則にでもなく、フィードバックによる状態に宿っている。学習とは、ある安定状態から別の安定状態へ乗り換わる、その移行そのものである。乗り換えれば、系が何に応答できるかも組み替わるだろう。

さらにレヴィンのPigozziらとの研究では、別様の学習も検証されている。ここでは因果的創発(causal emergence)と呼ばれる現象に着目された。これは例えば、片目では得られず、両目で初めて見える奥行きのような、入力を組み合わせたことによって得られる情報だと考えるとイメージがしやすい。パブロフ的連合訓練の後に、部分(e.g.片目)からは説明できないような挙動が増えるのだが、ランダムなネットワークでは56%増えたのみだったのに対し、生物界に存在するネットワークではこの量が平均128%増えたのである。あくまで統計的な指標に代替された変化率であるし、サンプルによって増えたり減ったり変化しなかったりと一様ではないが、一般的な傾向として有意な差が見られている。

これらの研究は、あくまでジェームズ的知性が生じる条件である「変化」を学習と呼んでいるに過ぎない。だが、ネットワークのノード(結節点)もエッジ(経路)も変わらずに、そうした変化が生じることを説明してくれている点では、非常に示唆的だ。この2つの学習に共通して驚くべき点は、生物の網は、ランダムな網よりも、この変化が起きる率が高いということだ。Pigozziらとの研究では、実在するGRNの方がランダムなネットワークよりも、訓練後の因果的創発が高かった。Biswasらとの研究では加えて、生物の中でも、脊椎動物は無脊椎動物より、分化した細胞は汎用的な細胞よりよく学習した(脊椎/無脊椎から74%、分化度から86%の精度で言い当てられた)。これは進化が、経験によって応答を変えやすいネットワークを選んできたということだと著者らは解釈をしている。すなわち、応答可能性が高いこと、ここに集団知性が生まれる秘密がありそうだ。

面白いのは、ここで知性も自己も、関係から創発していることだ。関係してしまっているネットワークから、新しい応答が生じているのである。それは、安定状態の変化であったり、因果的創発だったりするかもしれない。とにかく、関係自体が新たに応答を通じて関係できる能力を、生み出しているのである。そこに知能的な個体(agent)も、確たる構造も、学習する主体も必要ない。あるのは関係の束であり、それが応答可能性(response-ability)を広げている。私たちが「知性」と呼ぶのは、その広がった応答可能性が凝集して見えるところであって、それを何かの主体に帰して「意志」や「解釈」と読み替えているにすぎないのかもしれない。むしろ自己が学習しているのではなく、学習という現象が帰属される先が「自己」と呼ばれているだけかもしれない。

これをプロジェクトに引き戻すと、この奇天烈さがより沁みてくる。チームや個人が学習するのではない。学習がチームや個人と呼ばれるものを作るのだ。ここでいう学習は個人や脳に帰属するものではない。安定状態の遷移、ひいては応答可能性の変化のことを指している。進化が選別してきたのは、いちはやく、こうした変化ができる系であった。一人で閉じているときと、集団であるときとでは、どちらがその系に近いだろうか。必要な問いは「これまで応答できなかった時空まで応答できるようになるために、どのような関係を結ぶべきだろうか」である。私はハラウェイのStaying with the Troubleという呼びかけが呼応しているように聞こえてくる。

さて、ここまでレヴィンを通して近年の集団知性に関する研究の動向を垣間見た。これらはメカニズムやシミュレーションとしては非常に示唆的であった。では、実際に生きた生命現象として振る舞いをみてみたい。そこで次回は粘菌を訪ねたい。脳も中心もない一個の変形体が、餌を探し、無害な刺激を無視するよう馴化し、迷路を解く。彼らの生態からヒントを得てみたい。

ぼくプロジェクト
おじさん

八木翔太郎

(29) 配置

The Rhythm of Intimacy

Kitty Gia Ngân

How We Become Monogamous

Recently, a friend shared the wonderful news that they are in love! What struck me was how, no matter 'gay' or 'straight', people tend to indicate the intensity of their passion by how soon they talk about wedding, a house, and children together. As if two lives have converged into a straight, continuous line, and the anticipated future becomes evidence of their present love. So what happens when their love unfolds differently?

When the lineage of monogamous relationships begins to queer, we are at a loss to communicate what is even happening. We have far fewer narratives for alternative futures. There are rituals for engagements, weddings, anniversaries, baby showers; fewer for uncoupling beyond divorce, and almost none for transforming a relationship, for changing in intimacy, or redistributing care without treating the queering as failure.

Walking into a family home, I am seated in the living room. What's displayed on the wall are wedding photographs, family pictures, awards, holidays, pets and children. Some are formal and others more casual, all happy. The wall will disappear as an edge when I am no longer focusing on its object, but stay there as a timeless declaration.

Sara Ahmed wrote that such displayed objects make visible a fantasy of what makes a 'good life', and that fantasy is taken as a 'natural orientation'. Displayed objects signal what counts as a posture of love—it signals one's own preferred intimacy, timeline, and boundaries. As Ahmed puts it, "Bodies become straight by tending towards straight objects." Objects are directional. They orient a body towards a line and keep it moving along that line. To treat a line as 'common sense' is to assume that the world has always unfolded from this point, and forget that any line(age) is historically drawn and continually maintained: It is just one among many possible directions.

In this light, our story of heterosexual monogamy is a linear narrative of choosing and being chosen repeatedly by a singular, opposite-sex other, who is most worthy of our undivided devotion. Our missing half. It is also a story of lineage and inheritance:

To follow such a narrative is to 'honor' one's parental and ancestral line. It is to have some objects placed within reach and others unreachable, avoided, removed. Inheritance is presented as a social good—a gift. But a gift once given produces a debt that demands its return (Marcel Mauss). The child who refuses the gift becomes a bad debt; ungrateful; the origin of bad feeling.

Holding up such a narrative rests on two (mis)assumptions:

  • (1) Desire originates deep inside an individual. This is a belief that yearning is a gap between an inner self and an external object.
  • (2) Desire points toward a missing object. To desire something is to lack that very thing, and that lack can only be fulfilled by the desired missing other.

When desire is narrated as a lack located deep within oneself, feeling attracted to anyone besides your partner becomes a moral failing, and a verdict that your partner is "not enough". Thus when someone who loves polyamorously is with a monogamous partner, shutting that openness down becomes the "loving" thing to do. Devotion becomes measured by how much of yourself you're willing to give up, an echo of certain religious ideals where love is self-sacrifice and piety is proven through suffering.

In such a worldview, love appears as a problem of finding the "ultimate right object". Countless movies spin this narrative of desire into its gazillion shades. Some examples are the ongoing debate over whether love outweighs stability, whether you should follow passion or loyalty, and the glorious trope of unrequited love. These variations are generated from the implication that intimacy is the search for and possession of the one person who will complete the arc of one's longing.

As I wrote in Polymorphous Touching, this is a narrow reading of desire. Desire can simply be generative, it doesn't need to come from lack and doesn't need a fixed object.

Monogamy as a line(age) individualises desire by capturing circulation. When I visit old friends after a long time gone and we walk into a restaurant, the seating arrangement is organised around couples. I am careful to leave space for partners to sit beside one another while I sit next to mine. It would appear bizarre to request a swapping seat, even though I wish to rekindle my friendships given the short time I have with them.

After all, any line is not neutral. If we use Barad's terms, monogamy is an ethical, epistemological, and ontological cut. A commitment to any cut determines the shape of love, which body is included, where desire should land; It reorganises the movement of attention, touch, conversation, time spent and possible futures.

A commitment to monogamy resonates with a commitment to capitalist ethics. Affection is treated like a zero-sum game, it circulates less freely amongst friendships, strangers, kinship networks, to become concentrated within the recognised couple. As if loving one subtracts from another. The couple becomes the primary unit through which care is expected to flow, demanding with it temporal continuity, ideally until death. Like buying a house, the promise of exclusivity and permanence is essential.

The question should not be whether monogamy is '(un)natural' or true to our 'deepest self'. What is more profound to ponder upon is what kinds of worlds it makes possible, what other worlds it renders almost impossible to imagine. So long as we see monogamy as the moral, common-sense narrative of love, many questions get harder to ask: Which moments are forced to the front to preserve the story? What violence becomes easier to ignore? Which ways of relating become unintelligible? Which relationships become disposable?

親密性のリズム

Kitty Gia Ngân, 八木翔太郎(訳)

いかにして私たちはモノガミー(専一愛)になるのか

先日、友人から素晴らしい知らせが届いた。恋に落ちたというのだ!ふと気になったのは、「ゲイ」であれ「ストレート」であれ関係なく、人は自分の情熱の強さを、どれほど早く結婚や家や子どもの話を持ち出すかで示す傾向があることだ。まるで二つの人生が一本の真っ直ぐな連続した線へと収束し、想定された未来が現在の愛の証拠になるかのように。では、二人の愛が違う形で展開したとき、何が起きるのだろうか。

モノガミー(専一愛)的な関係の系譜がクィアになりはじめると、私たちはいったい何が起きているのかを伝える言葉すら失ってしまう。別様の未来を語る物語が、あまりにも少ないのだ。婚約、挙式、記念日、ベビーシャワーのための儀式はある。しかし離婚以外の別れのための儀式はほとんどなく、関係を変容させること、親密さを変化させること、そのクィアリングを失敗として扱わずにケアを再分配することのための儀式は、ほぼ皆無だ。

ある家族の家を訪ねると、居間に通される。壁に飾られているのは、婚礼の写真、家族の写真、表彰状、旅行の記念写真、ペットや子どもたちの写真だ。改まったものもあれば、よりくだけたものもあるが、どれも幸せに満ちている。その壁は、飾られたものに注意を向けていないとき、端として消えてしまうだろう。しかし、時を超えた宣言として、そこに留まりつづける。

サラ・アーメッドは、こうした展示された物は「よき人生」を構成するファンタジーを可視化するのだと書いた。そして、そのファンタジーは「自然な方向性(natural orientation)」として受け取られる。展示された物は、愛のあり方として何が正統とみなされるかを示し、自分自身が望む親密さ、時間軸、境界線を示す。アーメッドの言葉を借りれば、「身体は、まっすぐな物へと向かうことでまっすぐになる」。物には方向性がある。物は身体をある線へと方向づけ、その線に沿って動きつづけさせる。ある線を「常識」として扱うことは、世界がつねにこの地点から展開してきたと仮定し、あらゆる「線(系譜)」が歴史的に引かれ、継続的に維持されてきたことを忘れることだ。それは、無数にありうる方向のひとつにすぎない。

こうした観点から見れば、異性愛的なモノガミーの物語とは、自分の全身全霊の献身に最も値する、ただ一人の異性の他者に繰り返し選ばれ選ぶという、線形の物語だ。欠けた片割れ。そしてそれはまた、血統と相続の物語でもある。

そうした物語に従うことは、親や祖先の系譜を「称える」ことである。それは、いくつかの物を手の届く場所に置き、他を届かぬ場所に、回避すべき場所に、取り除かれた場所に置くことだ。相続は社会的な善——贈り物として提示される。しかし一度与えられた贈り物は、その返礼を求める債務を生む(マルセル・モース)。贈り物を拒んだ子どもは、不良債権となる。恩知らずで、悪感情の発生源となる。

こうした物語を支えるためには、二つの(誤った)前提がある。

  • (1)欲望は個人の深くから発する。これは、渇望(yearning)とは内なる自己と外的な対象との間の隔たりであるという信念だ。
  • (2)欲望は欠けた対象へと向かう。何かを欲することは、まさにその何かが欠けているということであり、その欠如(lack)は欲望された欠けた他者によってのみ満たされうる。

欲望が自分の内部深くに宿る欠如として語られるとき、パートナー以外の誰かに惹かれることは道徳的な失敗となり、パートナーが「不十分である」という判決となってしまう。こうして、ポリアモリー的に愛する人がモノガミーのパートナーと一緒にいるとき、その開かれた愛の可能性を閉じてしまうことが「愛情ある」ふるまいとなる。献身の深さは、自分のどれだけを差し出せるかで測られる。それは、愛が自己犠牲であり、敬虔さが苦しみによって証明されるという、ある種の宗教的理想のこだまだ。

こうした世界観では、愛は「究極の正しい対象」を見つける問題として現れる。数え切れないほどの映画が、この欲望の物語を無数のバリエーションへと紡いでいく。愛は安定性より重要かという議論、情熱に従うべきか誠実さに従うべきかという問い、そして報われない愛という輝かしい定番のトロープがその例だ。こうした変奏はすべて、親密さとは自分の渇望の弧を完成させてくれる、たった一人の人を探し求め、その人を所有することだという示唆から生み出されている。

私が「多形的な触れ合い(Polymorphous Touching)」で書いたように、これは欲望の狭い読み方だ。欲望はただ生産的でありうる。欠如から来る必要はなく、固定した対象を必要ともしない。

線(系譜)としてのモノガミーは、循環を捕獲することで欲望を個人化する。長らく離れていた旧友を訪ね、一緒にレストランへ入ると、席の配置はカップルを中心に組まれている。短い時間しかないなかで友情を温めたいと思いつつも、自分はパートナーの隣に座り、パートナーどうしが並んで座れるよう気を使う。席を替えてほしいと頼むのは奇妙なことに映るだろう。

結局のところ、いかなる線も中立ではない。バラッドの言葉を借りれば、モノガミーは倫理的、認識論的、存在論的なカットだ。あらゆるカットへのコミットメントは、愛の形を、どの身体が含まれるかを、欲望がどこへ向かうべきかを決定する。そして注目、触れ合い、会話、過ごす時間、可能な未来の動きそのものを再編する。

モノガミーへのコミットメントは、資本主義的倫理へのコミットメントと共鳴する。愛情はゼロサムゲームのように扱われ、友情、見知らぬ人、親族ネットワークを通じて自由に循環することが少なくなり、承認されたカップルの内側へと集中していく。まるで一方を愛することが、もう一方への愛を差し引くかのように。カップルは、ケアが流れることを期待される主要な単位となる。それとともに時間的な継続性も求められ、理想的には死まで。家を買うのと同様に、排他性と永続性の約束が不可欠なのだ。

問いは、モノガミーが「(不)自然」かどうか、あるいは私たちの「最も深い自己」に忠実かどうかであるべきではない。より深く思案すべきは、それがいかなる世界を可能にし、いかなる世界を想像することさえほぼ不可能にするかだ。モノガミーを愛の道徳的で常識的な物語として見るかぎり、多くの問いは立てにくくなる。その物語を守るために強制的に前景化される瞬間は、どれか。見て見ぬふりをしやすくなる暴力は、何か。どんな関係の築き方が理解不能になるのか。どんな関係が使い捨て可能になるのか。

プロジェクトマネージャーに「体」は必要か?

長谷部かな

第4回「体を感じる」ことをモデリングしてみる

あるとき言われた。
「どうやって体を感じるんですか?」

話してみると、「体 "で"感じる」ならわかるが、「体 "を"感じる」だとピンとこないらしい。
説明を試みたが、これは感覚の違いなので、うまく伝えるのがむずかしい。厳密にしようとすると、認知科学と脳神経の領域に突入してしまう。しかし、この連載での「体を感じること」は、分解して理解したいわけではない。肉体も、思考も、その他全部をひっくるめて、いまここに居る「自分全部を感じる」ということだ。

とはいっても、「は?」となると思うので、今回は、私がイメージするときに使っているモデルを共有してみる。
このモデルには、学術的な厳密さも、根拠もない。自分の実感だけを元に作っている。

まぁ、「まずこういうモデルがあると思いねぇ」という、思考実験だ。やってみてほしい。

モデルケース

自分の場合を想像してみてほしい。

月曜日の朝。スマホのアラームが鳴る。あなたは、ベッドの上で身体を起こす。頭が痛い。(あー、仕事だ)ベッドから起きて、トイレに向かう。

頭は痛かったが、あなたは仕事に行った。

さて、その時のあなたの感覚はどれだろうか?

  1. 仕事は行くものだ。
  2. 仕事は休めない。
  3. 頭痛がするので薬を飲んで、仕事に行く。
  4. 頭痛がするから、今日は仕事はそこそこにする。

分解してみる

ここに起きていることを分解してみる。
まず、頭が痛い、という「肉体」がある。その肉体から、「頭が痛い」という体の声が上がってくる。同時に、「仕事に行かなきゃ」という思考も動く。この声と思考をどう扱うか決めて、最終的に行動が決まる。

これを図にすると、こうなる。

A:肉体 → B:体の声/C:思考 → チューニング → D:行動

体の声と思考、この2つをどう組み合わせるか。それを「チューニング」と呼んでみる。先程の①〜④は、このチューニングの仕方の違いだ。

  1. 仕事は行くものだ。→ 体の声に気付かず、思考だけで行動に直行。盲目的な行動。
  2. 仕事は休めない。→ 体の声に気付いているが、思考で上書きする。
  3. 頭痛がするので薬を飲んで、仕事に行く。→ 体の声に対処しつつ、思考を優先する。
  4. 頭痛がするから、今日は仕事はそこそこにする。→ 体の声と思考、両方を踏まえて行動を調整する。

「体を感じる」

このモデルには厳密さを求めなくていい。人間は機械じゃないから、こんなにきれいに分解できるはずがない。

ただ、こういうステップが自分の中にあるとイメージしてみてほしい。体の声があって、それと思考が分けられるとしたら。そんな風に自分の行動を見つめられるようになれば、このモデルとしてはOKだ。

最初はピンとこないかもしれないが、やってみてほしい。感じている体に気付く手がかりになると思う。そして、このモデルがイメージできたら、この3つも合わせて見てみてほしい。

  • 盲目的に行動(D)を決めていないか
  • 体の声(B)があることに、気付いているか
  • 体の声(B)と思考(C)の間で、行動(D)をチューニングしているか

自分の体と行動がどういう関係なのか、見えてくるはずだ。

起きた時、頭が痛かった。これは体からの信号だ。体は言う「頭が痛い」。つまり、調子が悪い、体を休めたほうが良い、と言っている。さて、あなたは、この体の声「頭が痛い」をどう扱っていただろうか。

もう一度、試してみる

別の場面で、もう一度やってみよう。

打ち合わせ中、他の人の発言をうけて、「あ!」と思った。言いたいことを思いついた。そのとき、あなたはどうするだろうか。

  1. 流した。
  2. 一瞬引っかかるけど、求められていないので発言しない。
  3. 発言は控えるが、あとで担当者に伝えようと思った。
  4. その場で「ちょっといいですか」と発言してみた。

肉体から上がってくる体の声(あ!という発言の衝動)と、思考(ここでは発言しないものだ)。この2つを、あなたはどうチューニングしただろうか。

  1. は、体の声に気付かず流した。
  2. は、体の声を思考で上書きした。
  3. は、体の声を保留にしつつ、後で扱った。
  4. は、体の声をその場で行動に反映させた。

どれが正解、ということはない。ただ、自分がどのパターンを取りやすいか、知っておくと役に立つ。
体の声に気付いていないなら、まずそこに気付くこと。気付いているのに上書きしているなら、その上書きが本当に必要かどうか、一度立ち止まってみること。
体の声と思考、両方を踏まえてチューニングする。それが、「体を感じる」ということの、実践的な第一歩だ。

今月のビデオゲーム

八木翔太郎

手で運べば早いのに
 〜サッカーという回り道〜

前回、C・ティ・ニューエンから「ストライビング・プレイ」を学んだ。ゲームの目標は、それを乗り越える奮闘そのものを味わう(プロセス・ビューティー)ために一時的に採用される「手放し可能な目的」なのだ。この発想には源流がある。ニューエンが繰り返し引く、バーナード・スーツ(Bernard Suits)の『The Grasshopper: Games, Life and Utopia』(1978)だ。ビデオゲームどころかコンピューターすら普及しきらぬ時代に、ゲームについて言語化しようとした古典である。

スーツが挑んだのは、かのヴィトゲンシュタインが『哲学探究』で「できない」と断じた当の仕事だった。彼は「家族的類似」しか持たない概念の例として「ゲーム」を挙げて、ボードゲーム、カードゲーム、球技、オリンピック競技などを見渡しても、すべてに共通する本質はないと論じた。何かを定義しようとすることの空しさの最たる例として彼が選んだのが、ほかならぬゲームだったのである。ヴィトゲンシュタインは「『共通するものがあるはずだ』と言うな、見てみよ」と説いた。スーツはこれを「申し分のない助言」だと認めたうえで、こう切り返す。「当のヴィトゲンシュタインは、最初から『ゲームは定義できない』と決めてかかっていたために、ろくに見もしなかったではないか」と。

著書のタイトル「Grasshopper(キリギリス)」は、夏に遊び暮らし冬に飢え死にするあのキリギリスの寓話になぞらえている。スーツはキリギリスを「遊びの生こそ最上だ」と説く賢者として、自らの代弁者に仕立てている。彼によればゲームとは、4つの要素からなる。

  1. 前‐遊戯的目標:ゲームとは独立に記述できる、達成すべき特定の状態(たとえば「ボールがゴールに入る」)
  2. 遊戯的手段:その達成に、ルールが許す手段だけを用いること
  3. 構成的ルール:より効率的な手段をあえて禁じ、より非効率な手段を強いるルール
  4. 遊戯的態度:そのルールを、ほかでもなくその活動を成立させるために、すすんで受け入れる構え

サッカー選手は、手でゴールに運べば速いのに、わざわざ足で蹴る。よく考えれば、ずいぶん滑稽な振る舞いだ。陸上選手は内野を突っ切らず、わざわざトラックを一周する。要するに、わざと回り道を課し、その回り道を、遊びそのもののためにすすんで引き受けている。これがスーツの言うゲームだ。おままごとのように、丸ごと作りものの約束ごとしかない遊びさえ、その約束ごとをすすんで引き受けるという一点で、ゲームの仲間に入る、というわけだ。ニューエンの「手放し可能な目的」はここから芽吹いているのである。

面白いのは「態度」が要素に含まれていることだ。つまりプレイヤーから独立してゲームがあるわけではない。例えばスミスとジョーンズがいたとしよう。スミスはa地点からc地点へ最短で行きたいのに、「bを通ってはいけない」というルールがあると知って苛立つ。一方ジョーンズは、同じルールを支持する。彼の目的は「cに着くこと」ではなく、「bを通らずにcへ行く」ことそのものだからだ(ジョーンズは「レースに出ている」のである)。同じ行為が、一方には不条理で、他方には活動の核心になる。この態度の違いをスーツは遊戯的態度(lusory attitude)と呼ぶ。ルールを、その活動が成立するためだけにすすんで受け入れる構えだ。

「すすんで」というのが強調ポイントだ。いつでも降りられるのに、あえてやる。スーツ自身、この遊戯的態度こそがゲームの定義の核となるものだと述べている。逆に、やらねば食えない、負ければ死ぬ、となった瞬間、それは仕事か強制となりゲームではなくなる。もっとも、その回り道は、ただ無意味なのではない。活動の性質を決めるのである。手を封じて足だけで運ぶことは、ボールをゴールに入れるという結果には要らないが、サッカーという活動には欠かせない。だからこそ人は、回り道を「すすんで」引き受ける。その活動こそが欲しいから、自発的に、あえて引き受けるのだ。

活動を欲する。これは活動を強いられることに慣れきった社会では不思議に聞こえるかもしれない。では「ユートピア」という活動する必要のない世界を仮定してみよう。働く必要も、統治も、稼ぐ必要もない。するとどうなるか。悪が消えるからモラルが、葛藤が消えるから芸術が、知が出尽くすから科学が、それぞれ為すべきことを失ってしまう。これは古代マケドニアの征服王アレクサンドロスが、もう征服すべき世界がもう無いと知ったときと似ている(作中ではこれを「アレクサンドロスの条件」と呼ぶ)。この条件が達成されたとき、為すべきことが尽きた人間を待つのは満足ではなく絶望なのだ。こうしたときに、ゲームは世界を救う。ゲームの「あえての回り道」は、この絶望の解毒剤として、奮闘を人工的に供給するからだ。つまり、私たちが「暇つぶし(pastime)」と呼んでいるゲームは、むしろ未来への手がかりなのである。来たるべきユートピアに備えて、私たちは今から素晴らしいゲームを蓄えておかねばならない、とまでスーツは書いている。彼によればゲームとは「それ自体のために為され、ほかの何のためでもないもの」というアリストテレスの究極目的に他ならない。いわば善き生の核心なのだ。

だが、それ自体を楽しんで行う仕事や探究なら、ユートピアでも内在的な価値を持つのではないか。しかし、需要のない世界で、あえて大工仕事を選ぶ男を考えてみよう。彼の建てる家は誰にも必要とされず、ボタンひとつで同じ家が手に入る。それでも彼はあえて建てるのである。あるいは、答えがすでにコンピュータに入っているのに、それを引き出さず自力で解こうとする科学者も同様だ。彼らがしているのは、結局、要らない回り道をすすんで引き受けること、つまりゲームなのである。必要性が消えた世界で、内在的に価値ある営みや奮闘が取る形そのものがゲームなのだ。

さて、プロジェクトに引き戻そう。プロジェクトはゲームだろうか。普通に聞かれたら誰しも違うと答えるだろう。プロジェクトの困難の多くは、すすんで課したものではなく、現実の利害が否応なく突きつけてくるものだからだ。だが例えば、限界費用ゼロ社会がAIが台頭する前から予言しているように、そして昨今のAI台頭がそれを裏付けるように、必要な仕事が代わりになされるようになるならば。その先に残るプロジェクトとは、まさにスーツのいうゲームとしてのプロジェクトではないだろうか。そして、それを可能にするのは、あの遊戯的態度(lusory attitude)、すなわち制約をあえて受け入れて奮闘を味わおうとする姿勢なのかもしれない。

もっとも、スーツの議論にツッコミどころがないわけではない。というのも、彼はヴィトゲンシュタインが警告した当のことをしているからだ。彼が反駁しながら提示したゲームの定義も例外ではないのである。われわれは日常的に「ゲーム」という言葉をゆるく(家族的類似)使っている。いくら見事な定義をしたとしても、人々はそれに基づいてゲームという言葉を使っているわけではない。それに反する使い方がなされはじめたら、間違うのはいつも定義の方なのである。例えば「イカゲーム」の参加者に遊戯的態度はないだろう。それに、ルールを守ること自体が目標であり活動でもある「おままごと」は、四要素定義を虚しく響かせていると思うのは私だけだろうか。

また、スーツは「ゲームとは何か」を問うたが、「なぜそれが楽しいのか」は語らなかった。むしろ定義から意図的に締め出したと言った方が正確かもしれない。だが、それは大事な要素なのではないだろうか。ニューエンはゲームに、プレイヤー自身の動作のなかに美を立ち上げる芸術形式を見出して、「プロセス・ビューティ」と楽しさを重ねたが、他にも観点はないだろうか。次回は「楽しさ」を正面から扱う、ゲームデザイナーの手引書『A Theory of Fun for Game Design』を開いてみよう。

流動のなかのプロジェクト

賀川こころ

第5回 距離とはなにか

野生のイルカのいる海に入るとき、大抵の人はイルカにできるだけ近づこうとする。すこしでも近くで見たい。並んで泳ぎたい。写真を撮りたい。その気持ちはよく分かる。しかし、そういうときほどイルカはつれなく離れていってしまうことが多い。

一方で、ほとんど自分から近づこうとしない人がいる。取り立てて速く泳ぐでも深く潜るでもなく、できるだけ静かに海に浸って、相手の動きを見つめながら待っている。まるで、「わたしはここにいて、あなたに応答する準備ができています」と身体で示しているかのように。

すると、不思議なくらいイルカのほうから近づいてくることがある。もちろん、いつもそうなるわけではない。野生動物だから、その日の気分もあるし、人間に興味がないこともある。そもそも、彼らは人間を必要として生きているわけではない。それでも、長く彼らと泳いでいると、彼らは目の前にいるひとつの生命が自分に応答してくる存在なのかどうかを見ているのではないか、と思うことがある。

そのとき、彼らとわたしたちとの間で縮まっているものとは一体なんなのだろうか。

目が合って、こちらがちょっと進路を変えると、合わせるように相手も進路を変える。こちらが静かに潜ると、相手も遅れずについてきて、合わせるようにゆっくり旋回したりする。こういう応答が成立するとき、物理的な距離が1mか10mかはあまり関係ない。あるいは、こちらがうまく応答できずにいると、すこしつまらなそうに、すっと目をそらして泳ぎ去っていく。首の角度ひとつで、次の瞬間の応答の成否が決まることはよくある。

彼らがもし、人間になんらかの期待をもって目を向けることがあるとするならば、それは接近ではなく、応答なのかもしれない。近づいたから応答が生まれるのではない。応答できることが、結果として距離を縮めるのだ。それは決して、「心が通じ合った」というような物語に回収されるべきものではない。けれど、広い海の中でイルカと人とが一瞬だけ交錯し関係が立ち上がる、その瞬間をわたしはうつくしいと思う。

近さとは物理的な距離が縮まることではない。互いに応答できること。その可能性こそが、近さなのかもしれない。

前回、個や方向はあらかじめ存在するものではなく、関係や行為のなかから立ち上がるのではないか、と書いた。だとすれば、その関係を生み出しているものもまた、物理的な距離ではなく、応答なのではないだろうか。海のなかで、クジラやイルカたちは互いを常に見ているわけではない。視界は限られ、エコーロケーションも四六時中使われているわけではない。それでも群れはほどけない。それは、互いを常に把握しているからではない。互いに応答しつづけているからではないか。

誰かが向きを変える。誰かが潜る。誰かが速度を変える。誰かが遊び始める。その動きに別の誰かが応じる。その応答に、さらに別の誰かが応じる。群れは誰かの指揮ではなく、相互の応答の積み重ねによって動いているように見える。わたしたちは、こうした状態を「同期」と呼ぶことがある。けれど、同期とは結果であって、本質ではないように思う。本当に起きているのは、その一歩手前で、互いが世界に向かって働きかけ、それに対する応答にさらに応じているという出来事なのではないか。

そう考えると、第2回で書いた「疎」という言葉の意味も、すこし違って見えてくる。疎とは、単に互いに離れているということではない。疎であるからこそ、それぞれが自由に探索できる。疎であるからこそ、新しい応答が生まれる。もし全員が常に密着し、互いの行動を揃えつづけていたとしたら、そこにあるのは応答ではなく追従だろう。探索は止まり、新しい方向も立ち上がらない。疎とは、応答を可能にする構造なのかもしれない。互いを切り離すためではなく、互いに応答しつづけるための余白なのかもしれない。

プロジェクトもまた同じではないだろうか。わたしたちは、情報を共有し、認識を揃え、互いを近づけることでチームをつくろうとする。しかし、本当に必要なのは、同じ情報を持つことではない。互いに応答できる状態でありつづけることだ。Project Sprintでは、定例会議を重視してきた。それは情報共有のためでも、認識を完全に一致させるためでもない。疎でありつづけても、互いが応答可能な距離を失わないためである。定例会議とは応答を取り戻すための場であり、結果として同期が生まれる。

わたしたちは、世界に働きかけていると思っている。計画を立て、役割を決め、進捗を管理し、世界を思いどおりに動かそうとする。しかし、海のなかで起きていることは、すこし違う景色を見せてくれる。そこでは、世界は操作する対象ではない。潮に応じ、仲間に応じ、環境に応じ、その応答がさらに次の応答を生む。ここでいう応答とは、受け身だということではない。世界から与えられたものに従うことでもない。自ら世界へ働きかけ、その世界が返してきた変化にさらに応じること。その循環のなかで、自分もまた世界を変えていくことだ。応答とは、循環なのである。

プロジェクトとは、世界を設計する営みではなく、世界に応答しつづける営みなのかもしれない。

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プロジェクトをAIと一緒にもぐってみている

定金基

新しい概念をAIとつくってみる対話

Project Sprintでは、メンバーがそれぞれ何かをつくって持ち寄り、定例会議でそれをもとに対話する、という営みを大事にしている。連載第1回でも「つくる」とは何かを考えたが、私はこの「つくって、集まって、話す」というサイクルそのものの意義を、もっと強く主張したいとずっと思ってきた。出力物は対話の材料として推奨される、という程度の説明では弱い。つくることが理解を生むのだ、という手応えが自分の中にある。それを、誰かの借り物ではない自分たちの言葉=新しい概念として立てられないか。そう考えはじめた。

ただ、新しい概念を一人でひねり出すのは難しい。すでにある言葉とぶつかっていないか、どの学問的な系譜に連なるのか、そもそも自分の直感が何だったのかを確かめながら進めたい。そこで今回は、AIに相談しながら新しい概念を生み出すことができるのか、を実験してみることにした。「構成的理解」という、自分でも意味の定まっていない言葉を一つ放り込むところから対話は始まっている。

以下はその対話ログと、終わったあとに自分の言葉でまとめた記録である。

#5 新しい概念をAIとつくってみる対話

〜 Claudeさんと
わたし

構成的理解ということばって存在する?

AIさん

結論から言うと、「構成的理解」をひとつの確立した術語(定訳・キーワード)としては見つけられなかった。哲学でも教育・学習理論でも、ヒットするのは「構成的理解」そのものではなく、隣接する確立済みの語彙のほうだった。文法的に自然なので「〜の構成を理解する」「理解は構成される」といった意味でアドホックに使う人はいるはずだけど、特定の原典に紐づく結晶化した概念ではない、という感触。

むしろ注意すべきは、「構成的/構成」が分野ごとにかなり重い前提を背負っている点——

わたし

構成的理解ということばって存在する?

AIさん

結論から言うと、「構成的理解」をひとつの確立した術語(定訳・キーワード)としては見つけられなかった。哲学でも教育・学習理論でも、ヒットするのは「構成的理解」そのものではなく、隣接する確立済みの語彙のほうだった。文法的に自然なので「〜の構成を理解する」「理解は構成される」といった意味でアドホックに使う人はいるはずだけど、特定の原典に紐づく結晶化した概念ではない、という感触。

むしろ注意すべきは、「構成的/構成」が分野ごとにかなり重い前提を背負っている点:

  • カント:構成的原理 vs 統制的(規制的)原理(konstitutiv / regulativ)。哲学では最も正統的な用法で「対象を成り立たせる」のニュアンス。
  • 構成主義(教育):学習者が対象について自分自身の理解を組み立てるように教えるべきだ、というピアジェ由来の学習・教授理論。
  • 構成主義(数学・論理):対象の存在を証明するには実際にそれを構成しなければならないという立場(構成的証明・直観主義)。
  • 現象学(フッサール):意識が対象・意味を構成する Konstitution。概念操作によって認識対象を組み立てることという哲学的「構成」。
  • 構造構成主義:現象学的思考法と記号論を組み込んだ、信念対立を回避するための西條剛央の枠組み。

つまり「構成的理解」は今のところ比較的"空いている"言葉で、Project Sprint の文脈で概念として立てること自体は妨げられない。ただ読者は上のどれか——特に「理解は構成される」という構成主義的な意味か、カント的な統制的との対比——を反射的に投影してくる。Weick のエナクトメントやフッサールの構成とどう接続するかを明示的に定義しないと、意図とずれて読まれるリスクが高い、というのが正直なところ。

どちらの含意で使いたい?理解が事後的に組み上がるプロセスとしてなのか、それとも共通了解(等最終的意味)を成り立たせる条件としてなのか——で、寄せるべき先行概念が変わってくる。

わたし

つくることで理解する、みたいな文脈でつかいたいなと。似た意味の概念なんかある?

AIさん

あるある。しかも「つくる=知る」はちゃんと名前のついた知的系譜になっていて、英語圏では「つくる者の知(maker's knowledge)」と総称される。源流から並べると——

哲学的な根

  • Vico の verum factum。1710年の『De antiquissima Italorum sapientia』で示された、真理は観察ではなく創造・制作によって検証されるという原理で、人は自分がつくったものしか真には知りえない、という主張。デカルト的合理主義へのアンチであり、"つくることで理解する" のほぼ大本。Vico・マルクス・デューイ・バシュラールがこの「つくる者の知」の系譜に連なるとされる。
  • Aristotle の technē / poiesis(制作に宿る知)がさらに遡る根。

学習理論

  • Papert の constructionism。これがドンピシャ。ピアジェの constructivism(構成主義)と一字違いで意図的に区別していて、「頭の中で知を組み立てる」だけでなく「人に見せられる作品を世界につくるときに学びが最も深くなる」という主張。Dewey の learning by doing がその手前にいる。

実践の認識論

  • Schön の reflective practice / knowing-in-action。実践者は「状況の素材」との進行中の対話を通じて、問題と解を命名・フレーミングの反復で同時に立ち上げる省察的実践者だ、という枠組み。Polanyi の暗黙知(語りうる以上を知っている)も隣接。すでにあなたの理論装置に入っているやつ。

組織・認知

  • Weick の enactment。行為が先、意味は事後——あなたの命題②「成果物先行・対話後」と完全に地続き。ここが本丸かも。
  • Varela らの enaction(エナクティヴィズム)は認知を身体的行為の立ち現れとして捉える別系統。Weick の enactment と語が似ているので引用時に混同注意。

クラフト・人類学

  • Ingold「thinking through making / knowing from the inside」Sennett「making is thinking」(手と頭の往復、material consciousness)。

方法論(語としては一番近い)

  • Constructive design research(Koskinen, Zimmerman, Binder, Redström, Wensveen 2011)。プロトタイプなど「もの」の構築を中心に据え、それを知を構成する主要な手段とする研究方法論で、Frayling(1993)の research through design や Archer の research through practice より、つくることを通じて知を生む方法論を一貫させたもの。"構成的(constructive)" + "つくることで知をつくる" を文字どおり名乗っていて、あなたが探している語に語彙的にも最も近い。

ひとつ実務的な注意。「構成的理解」を英語に開くと constructive understanding になり、(a) 構成主義(constructivism)、(b) すでに making=知の生成を名乗っている constructive design research、の両方とぶつかる。Papert がわざわざ constructionism という別語を立てて constructivism と差別化したのと同じ問題に直面する。だから日本語の概念として立てるなら、「つくる」を前景化する自分の定義を冒頭で明示して、上のどの系譜を本流に据えるか(Weick のエナクトメントか、Vico のつくる者の知か)を宣言してしまうのが安全だと思う。

どれを軸に置きたい?

わたし

https://cognitive-mirroring.org/publications/ なんかこのジャンルにはあるみたいよ。構成的理解。意味調べてみて。

で今回、私はプロジェクトスプリントにおいて、会議と会議の間に何かをつくってくることで全体が理解できるみたいなことを概念として定義したくて。それに近いもので既存のものを教えて。

AIさん

CREST 認知ミラーリングの業績ページ、確認した。ここで使われているのは「構成的理解」というより、その母体になっている構成論的アプローチ(constructive / synthetic approach)という認知科学・ロボティクスの方法論で、ズバリのスローガンが載ってる——長井志江の講演タイトル「予測脳の発達:ロボットを創ることでヒトを理解する」。他にも國吉康夫らの「構成論的発達科学」、長井の「神経回路モデルを用いた自閉スペクトラム症の発生原理の構成的解明」といった形で繰り返し出てくる。

意味を整理すると、この界隈の「構成的/構成論的」は、対象を実際に構成(モデル化・実装)することで初めて理解できる、という方法論的な立場を指す。外から観察・分析して記述するのではなく、自分で組み立てて動かし、系全体を見て理解する。一次資料でもはっきりそう言っている:

  • 浅田稔(認知発達ロボティクス): 知能発達の仮説に基づいてロボットを作って動かし、その成長を見ることで仮説を検証する——この手法を「構成論的アプローチ」と呼ぶ。ちなみに浅田は「結局わかったのは『分からないということが分かってきた』だ」とも自嘲気味に語っている。
  • 浅田研「構成的発達科学」: シミュレーションやロボットを実際に作ることを通じて、メカニズムの細部から実際の挙動までの系全体を見ながら新たな理解を得ようとする試み。
  • 認知ロボティクスでの定義: 平たく言えば「作ってみればわかる」という考え方で、人間の認知の仕組みをロボット上に再現・実装して観察する手法。
  • ERATO 浅田PJ: 構成的手法による人間の認知発達過程の理解を目的とする、と明記されている。

語形は認知科学では構成論的アプローチ/構成的手法が定番(前回の「構成主義 constructivism=知は構成される」とは別物。こちらは「理解したければ作れ」という方法論)。西洋側のルーツは Braitenberg『Vehicles: Experiments in Synthetic Psychology』(1984) の「分析は上り坂、総合は下り坂」(作るほうが理解は速い)と、Pfeifer & Scheier『Understanding Intelligence』(1999) の "understanding by building / synthetic methodology"。

ただ、あなたの構想とは構造が一つズレている。構成論は「Xを理解するためにXのモデルを作る」(ロボット=人間認知の代理物)。あなたのは「プロジェクト全体を理解するために、その部品=成果物を反復的に作る」。作るものが〈対象の模型〉ではなく〈対象そのものの一部・探り〉である点、そして科学の方法論ではなく協働の実践である点が違う。だから構成論的アプローチは、"つくることで理解する" を学術的に正当化してくれる血統・命名の先例ではあるけれど、一対一の双子ではない。

あなたの機構(会議間に作る→全体が分かる、しかもチームで)に一番近いのは、むしろ前回挙げたうちのこれら:

  • Weick のエナクトメント: 行為して初めて環境と意味が立ち上がる。命題②「成果物先行・対話後」そのもので、組織のレジスターで一番効く。
  • Schön の「状況の素材との対話」: 作り、素材に応答され、名づけ直す反復。会議間ループに重なる。
  • Constructive design research / research through design: プロトタイプという「真ん中のもの」を反復的に作って知を生む。"constructive" の語も含めて近い。
  • 境界オブジェクト(Star & Griesemer): 成果物が、視点の異なるメンバーを束ねて「全体」の共通了解を立ち上げる装置になる。命題③(成果物=マテリアル・デバイス)と「全体理解」の接点。

つまりあなたの概念は、構成論的(つくって理解する)認識論を、科学的モデリングではなく反復的な協働プロジェクトに移植したもの、という位置づけになる。構成論 × 組織的センスメイキング × 境界オブジェクトという接合点は既存のどれでもなく、たぶんそこがProject Sprint固有の貢献になりうる。

「全体が理解できる」の〈全体〉を、(a) プロジェクトのゴール像・完成形として考えてる? それとも (b) メンバーが分担を超えて共有する協働の地図として? どちらかで寄せる先(前者なら構成論寄り、後者なら境界オブジェクト+エナクトメント寄り)が変わる。

わたし

Bだな

AIさん

(b) なら、まず効いてくるのは「全体の理解=共有された表象」ではない、という反転だ。あなたが捉えたい〈全体〉は、全員が同じ絵を頭に持つこと(共有認知・合意)ではなく、各自が自律的に動いても互いに予測可能でいられる協働能力のほう。それはまさに命題④の equifinal meaning(Donnellon, Gray & Bougon 1986)——合意でも同一表象でもなく、自律行動に十分な相互予測可能性。だから (b) を選んだ時点で、新概念「構成的理解」は④と直結する。

その線で一番効く既存概念:

境界オブジェクト(Star & Griesemer 1989)。本丸。ローカルでは各自の都合に合わせて柔らかく、全体では共通のアイデンティティを保つほど頑健——だから合意なしに異質なメンバーが協働できる。成果物がこの境界オブジェクト。ただしあなたの新しさはここで、S&Gの境界オブジェクトはたいてい〈既にあるもの・標準化されたもの〉として遭遇されるのに対し、Project Sprintではそれを毎サイクル意図的に作り直す。構成論の「作って理解する」と境界オブジェクトの「合意なしに協調する」を融合させている点が、既存にない接合点。

分散認知(Hutchins 1995, Cognition in the Wild)。(b) の〈全体〉はそもそも一人の頭に収まらず、人+人工物に分散した系のプロパティとして立ち上がる。これが「内的なすり合わせではなく外的な成果物を作る」という機構の正当化になる——全体の認知は成果物とネットワークにオフロードされている。

アーティキュレーション・ワーク(Strauss、CSCW系の Schmidt & Bannon)。分散したタスクを噛み合わせて一つの全体にする「調整のメタ作業」。成果物は、この調整が外化・実行される場になる。

注意の一語。ここで誰もが手を伸ばす「共有メンタルモデル(shared mental models)」は、収束した・同一の表象を含意するので、あなたの④とは逆を向く。だから引くなら〈区別する相手〉として置くのが正しい(「うちはこれではない」と宣言するために)。

トランザクティブ・メモリ(Wegner 1987)や common ground(Clark & Brennan 1991)も隣接するが、どちらも部分。

ここから一つ理論的に美味しい帰結が出る。メンバーが自律的に動くぶん、分散した協働マップは会議と会議の間にドリフトする。境界オブジェクトを定期的に作り直すことが、それを再同期する間隔になる。つまり定例のリズムはスケジューリングのためじゃなく、equifinal meaning の再接地(re-grounding)の周期だ、と言える。①と④が「作る」を介して一本につながる。

命題への接続でいうと、(b) のもとでは「構成的理解」は①③④の合流点になる。③(成果物=マテリアル・デバイス)がそのまま境界オブジェクトで、④(equifinal meaning)が到達したい状態、①(共有リズムによる統合)は——境界オブジェクトを統合装置とみて、会議のリズム=エントレインメントがそれを同期させ続ける、と読める。

叩き台の定義: 「構成的理解とは、会議間に成果物を反復的に構成する営みを通じて、チームが合意ではなく相互予測可能性(共通了解)を再生産し、分業を貫く協働の全体像を維持する過程」——くらいでどう?

対話ログからのまとめ

この対話でAIが挙げた概念や来歴が、どこまで厳密に正確なのか——いわゆるハルシネーションがどうこう——は、今回に関してはもうどうでもよかった。それよりも、自分が考えを進めるための参考になるテキストを次々に差し出してくれたことが、とにかくありがたかった。一人で考えていたら、Vicoの verum factum も、構成論的アプローチも、境界オブジェクトも、ここまで一息に手元へ並べることはできなかったと思う。それぞれが正確なものかは、このプロセスにおいてはもはやどっちでもいい。

なかでも唸ったのは、この一節だった。

あなたが捉えたい〈全体〉は、全員が同じ絵を頭に持つこと(共有認知・合意)ではなく、各自が自律的に動いても互いに予測可能でいられる協働能力のほう。(中略)合意でも同一表象でもなく、自律行動に十分な相互予測可能性。

叩き台の定義: 「構成的理解とは、会議間に成果物を反復的に構成する営みを通じて、チームが合意ではなく相互予測可能性(共通了解)を再生産し、分業を貫く協働の全体像を維持する過程」——くらいでどう?

自分が「全体が理解できる」と言うとき、本当に言いたかったのはこういうことなんだろうな、と腑に落ちた。共有や合意という言葉でぼんやり指していたものが、「相互予測可能性」という別の軸に置き換わった瞬間、輪郭がはっきりした。こんな抽象的なことを一緒に考えられる相手になったのは、率直に、めちゃくちゃ頼もしい。

今回うまくいったのは、「構成的理解」という自分なりの造語を最初に放り込んだからかもしれない。定まっていない言葉を一つ置くと、AIはその周辺の既存概念を探しにいき、自分はそれを糸口に「自分が言いたいのはこっちだ/こっちじゃない」と選り分けていける。新しい概念をつくるときのアプローチとして、これはなかなか筋が良い気がしている。ただ、問いも残った。こういうキーワードを持ち込まなくても、概念のようなものをAIと一緒に立ち上げることはできるのだろうか。そして、このやり方をもう少し汎用的に整理できれば、概念づくりに限らず、人に対して問いを立てるときのヒントにもなるのではないか。

いずれにせよ、今回たどり着いた「自律行動に十分な相互予測可能性」というあたりを、もう少し深掘りしたい。借り物の訳語ではなく、この感覚を一語で言い当てる新しいワードに、最終的には自分の手でたどり着きたいと思っている。

Editor's Note

八木翔太郎

去年のある昼のこと。ブライトンのIKEAでご飯を食べていたら斜め向かいに座っていたヒゲもじゃのおじさんが「この本について話してよ」と、机の上に置いていたOntological Designを指差して話しかけてきました。半年以上経って会話内容をほとんど忘れてしまった今でも印象に残っているのは、彼が「遠近法」について嘆いていたことです。聞けば彼は建築家で、なぜ建物が直角になってしまったのかを教えてくれました。彼によれば、それは設計するにあたってパースを描くときに遠近法を用いたからだそう。遠近法では線は直線であり、水平線と直角に交わります。こうして、床も、壁も、天井も、全てが平らに「つまらなく」なったのだと。

一方で、自然界で平坦なものなどほとんどありません。「見てごらん」と、おじさんは外の景色を指さします。床は凸凹している。足の裏も凸凹しているんだ。だが、建築はそれを平らにしてきた。おかげで土踏まずは退化し、靴によって足の裏の感覚は失われてきていると。でも、そのきっかけは「遠近法」という至極当たり前で、便利で、合理的なものの見方だったのです。まるで無害で関係のなさそうな大前提が、世の中を無機質にして、進化が培った感覚を駆逐してしまう。そんな驚きと恐ろしさを感じたからこそ、今も覚えているのだと思います。

今月のKittyさんの記事で描写された一般家庭の「壁」の話、そして「身体はストレートなオブジェクトに寄り添うことでストレートになる」という文章を読んで、私はこの出来事をふと思い出していました。もちろん、ここでいう「ストレート」はクィアネスに対峙するセクシュアリティに関する表現ですが、ひげもじゃおじさんの嘆きと面白いほどに響き合っています。男女の遺伝子から子供が産まれるので、それを前提に家族という「設計図」を描いてみよう。至極当たり前で、合理的な考え方ですよね⁉︎

なにも、ヒゲもじゃのおじさんは「ストレートさ」そのものを嘆いていたのではありません。その後に「brighton i360」で街を一望することを勧めてきたので間違いないでしょう。凸凹した支柱を昇降する観覧席なんて誰も乗りたくありませんから。彼が嘆いていたのは、むしろ「その他」がなかったことにされてしまうことです。豊潤な世界や感覚が消えてしまうことです。ストレートさが常識になって、そのこと自体に誰も違和感を覚えないことです。そうした絵に描いた家族を持たない子供がいたとして、可哀想だという投影をするのは、こうした大人の眼差しであり、壁に立てかけられたオブジェクトたちなのです。

どんなに確からしい原則も、原理的に定義することはできません。グッドマンやヴィトゲンシュタインが述べたように、あらゆるルールは覆されうるからです。現実はいつでも定義をすり抜けてしまうのです。そう考えると「こうあるべき」だという道徳はむしろ非倫理的ですらあるかもしれません。そこに多様な身体と世界があることを忘れさせてしまうからです。そもそも、いろんな動態(multistability)があるから学習が生じうるのであり、部分では説明できない何かが出てくるからこその創発です。それは有機的な生成の原理です。それを否定したら、残るのは文字通り無機質な世界でしょう。ストレートはいつも人の頭の中にあるのです。これは水の中を覗いてみればすぐに気付くことでしょうが、今日も人は当たり前の顔をして、平らな道路と建物を作り続けています。