The Project Theory Probe Journal

Issue 27
Apr. 30 2026

知能としてのプロジェクトを見い出したい

八木翔太郎

第3回 概念を解体する菌類

前回、バクテリア研究者エシェル・ベン=ジェイコブの仕事を振り返っておこう。彼が示したかったのは、細胞という生命の最小単位がすでに集団的な知性を備えているということだった。バクテリアのコロニーは環境のストレスに応じてコロニー全体の形態を再編し、抗生物質への接触から集団的な記憶を形成し、遺伝物質の交換を通じてゲノムそのものを動的に書き換える。彼はこれらの現象を「クリエイティブ・ゲノミックウェブ」や「社会的知性」と名づけ、生命が機械には還元できない存在であることの証拠として提示した。

しかし彼の理論的枠組みは、観察の豊かさに追いついただろうか。コロニーの振る舞いを記述するとき、彼は繰り返し「個体が意味を解釈し、文脈に応じて判断を下す」という図式に立ち戻った。胞子形成は個体の「投票」による集団的意思決定として、形態型の転換は個体間の「意味に基づく対話」として語られた。こうした還元主義的な解釈の前で、集団のレベルで何が構造的に生じているのかの解明には、ついに到達しきらなかった。

そこにはつねに一つの前提があったように思われる。「個体が先にあり、ネットワークは後から出現する」という順序だ。バクテリアはまず個体として存在し、危機に際して膜を開き、遺伝物質を放出し、他者と繋がる。ここでネットワークはあくまで個体の延長として生じている。

一方で、菌類はこの順序を根本から崩す存在だ。菌糸体において、ネットワークは個体に先行する。個体性はネットワークの特定の読み方に過ぎず、「個体に戻る」という状態が原理的に存在しない。この転倒がいかなる意味を持つのか。それを問うているのが、イギリスの菌類学者メルリン・シェルドレイクである。

シェルドレイクが2020年に刊行したEntangled Lifeは、科学書でありながら認識論的な挑戦として読まれるべき著作だ。彼が最初に立てる問いは「菌類であるとはどういうことか(What is it like to be a fungus?)」というものだ。これはトーマス・ネーゲルの「コウモリであるとはどういうことか」を意識しているが、より認識論的なところまで及んでいる。すなわち、菌類を理解しようとするとき、私たちはいかなる概念的道具を持ち込んでいるのか、そしてその道具は菌類という存在に適しているのか、という問いである。

この問いの背景には、明確な知的系譜がある。ドゥルーズ&ガタリが『千のプラトー』で提唱した「リゾーム」(中心も階層もなく、どこからでも切り取って再接続できる成長様式)が、菌糸体というリアルな存在によって体現されているとシェルドレイクは見る。またリン・マーギュリスの共生論も重要な柱だ。競争を進化の主要駆動力とするネオ・ダーウィニズムに対し、マーギュリスは協働こそが常態であると主張し、個体という概念そのものに異議を唱えた。こうした系譜の上に、菌類の知見が私たちの概念そのものを更新することを、シェルドレイクは提示している。

彼の脱人間中心主義は単なるポーズではない。知性があるかどうか、記憶があるかどうか、意思決定ができるかどうか。これらの問いは全て、人間を基準として設定されたスケールの上で菌類を測ろうとする身振りだ。そのスケールを持ち込む前に、菌類という存在が何を問いとして突きつけているかを聞くべきであるという、認識論的提案をしているのである。

菌類を理解する鍵となるのが、anastomosis(菌糸融合)という存在様式だ。菌糸は伸長しながら他の菌糸と物理的に融合し、細胞質を共有する。この融合は例外ではなく常態であり、「自己」と「他者」の境界は固定されていない。これはベン=ジェイコブのゲノミックウェブと根本的に異なっている。バクテリアがストレス下において「緊急手段」として遺伝物質を交換するのに対し、菌糸体における融合は恒常的であり、個体の境界そのものが消えている。

さらに、木々が地下の菌根ネットワークを通じて糖を分け合い、化学信号を送り合う様子を彼は「ウッド・ワイド・ウェブ(Wood Wide Web)」と呼ぶ。一本の木が「個体」として振る舞うときにさえ、その根拠の多くは菌糸ネットワークにある。その意味では、個体とは関係の束の、一時的な結節点に過ぎないとさえ言えるだろう。ただし、この比喩は協調の側面を強調しすぎる危険もある。菌類と植物の関係には寄生や競争の側面もあり、協調と搾取の区別が菌糸の論理では根本的に溶解している。それが問題を複雑にすると同時に、問いを豊かにしてくれるのではないだろうか。

菌類はまた、脳なき問題解決の事例でよく知られている。迷路実験では、菌糸体が中枢制御なしに最短経路を形成することが示されている。菌糸先端が栄養勾配を感知し、資源の乏しい方向への伸長を後退させながら、ネットワーク全体として解を形成する。さらに奇妙な事例がある。菌類研究者Lynne Boddyが行った実験では、菌糸体をある木材ブロックAから伸長させ別のブロックBを発見させた後、Aから伸びた菌糸をすべて除去してAを新しいシャーレに移した。するとAから再成長した菌糸は、もうBが存在しない方向へと伸長した。菌糸体は「方向の記憶」を持っていたのだ。しかしその記憶がどこに宿っていたのであろうか。ネットワークはすでに除去されていたのである。この原理は未解明のままである。

菌糸体はこのように、私たちが知性や記憶と呼ぶものを、その基盤が特定できない形で体現する。彼は菌糸体を「群れ(swarm)」として理解しようとする試みを慎重に解体している。群れは単位に分解できる。アリ一匹一匹は取り出せる。しかし菌糸は取り出せない。成長した後は物理的に融合しており、一本ずつ解体することはできないからである。「ネットワークの視点から見れば、菌糸体は一つの連続した実体だ。しかしhyphal tipの視点から見れば、菌糸体は多数体だ」とシェルドレイクは言う。単位を問おうとすると、答えが観察のスケールによって変わってしまう。

こうした問いに対してシェルドレイクが提案するのが「ポリフォニー」というアナロジーだ。1980年代に音楽学者Louis Sarnoが録音した中央アフリカ共和国のAka族の音楽「Women Gathering Mushrooms」。女性たちが菌類を採集しながら歌うこの音楽は、誰もリードせず、誰も従わず、それでも複数の声が絡み合いながら一つの形を生む。彼曰く、一人の声を追おうとすると他が失われる。しかし「聴き方を柔らかくする」と、どの声にも存在しない「一つの曲」が浮かび上がるのである。

ポリフォニーのアナロジーは、菌糸体が何をしているかを感覚的に伝える。しかしなぜそれが可能なのか。シェルドレイクはこれを意図的に語っていない。「これほど多くの問いがあり、答えがこれほど少ない。それが面白い」。曖昧さに居続けること、複数のメタファーを同時に保持すること。それがシェルドレイクの認識論的立場だ。理論を提示することが彼の目的ではない。彼は、菌類を前に私たちが持ち込む概念的道具の限界を露わにしているのである。

シェルドレイクの「複数のメタファーを同時に保持する」という提案は、人間基準の概念で菌類を測ることに対する鋭い批判だ。しかし、彼が提案したのは問いを開いたまま保持することであって、集団知性の記述原理ではなかった。われわれは、ここから2つの問いを深ぼることができそうだ。1つは、吻合(anastomosis)が端的に示しているように自己の境界が固定されず伸縮するならば、「自己とは何か」を根本から問い直さなければならないという点だ。そしてもう1つは、バラバラな菌糸先端の探索がいかにして一つのネットワークとしての振る舞いを生むのか、という点だ。

この問いは、菌類をはるかに超えた射程を持つ。あらゆる生命システムに対して「どこまでの時空間スケールで目標を追求できるか」を問うマイケル・レヴィンの「認知の光円錐」はそれに対する1つの答えとなりうるかもしれない。単位の問いをダイナミズムの問いへと変換する彼の試みを、次回辿ってみたい。

ぼくプロジェクト
おじさん

八木翔太郎

(27) (アイン)ザッツ

The Rhythm of Intimacy

Kitty Gia Ngân

Polymorphous touching.

"Is touching not by its very nature always already an involution, invitation, invisitation, wanted or unwanted, of the stranger within?" — Barad, 2012

To understand how intimacy is inherent to rhythm (and the gay differences), we need to free intimacy from sex and negative vulnerability.

In 1905, Freud introduced the term "polymorphous perversity" to talk about babies. He pointed out that their whole body is an erogenous surface! Babies can derive pleasure widely and indiscriminately. From certain temperature, sound, texture, and even rhythm; through touching, smelling, sucking, viewing, exhibiting, rocking, defecating. Adulting, however, is prioritising (heterosexual) reproductive needs, thus the polymorphous pleasures eventually concentrate into one-zone: the genitals. All other pleasures are welcomed only because they build sexual tension that will demand discharge through the genital, completing the teleological arc of arousal → tension → climax.

Marcuse and queer theorists refused this developmental story. They pointed out that the reason why pleasure is genitalised into reproduction is actually a regime of control, management, and censorship. Bodies that organise around pleasure freely don't make good workers, soldiers, mothers, or subjects, so historically every regime needs to narrow what bodies are allowed to do, feel, and want. In the European bourgeoisie's self-fashioning across the 18th and 19th centuries — exported globally through colonialism, missions, psychoanalysis, and capitalism — elevating the monogamous, heterosexual couple into the proper site of intimacy, thus disciplining the body to pleasure only for reproduction sanctioned by law. To achieve this goal, the detachment of the body and its feelings is glorified, as Kana wrote in Journal 26.

Foucault pointed out that people are encouraged to talk about sex — through confession, medicine, school, psychiatry, law, scientific inquiry — to then classify, treat, and govern it from within. The dominant grammar narrows touching/intimacy/desire onto a few recognised channels: the crush, the couple, the family — where intimacy is now framed as the "courage to share about yourself vulnerably."

The wide capacity of touch before this narrowing is what I call polymorphous touching: What counts as "touch" is released from its disciplined forms (the handshake, the hug, the kiss, the sexual aim) and redistributed across every material register — lighting, sound, objects, textures, spatial arrangements, and also tempo, language, thoughts.

The body as a site that cannot be fully disciplined, plays a central role in sensing the inseparability of spacetimemattering (Barad). A friend's photograph. A night breeze. A humming to a melody. These can be pleasurable and intimate, which stands in contrast to Western therapeutic accounts, where intimacy is framed as an act of bridging chasms between bodies through disclosure and nakedness. Such a framing assumes a threat between relations that needs a bridge. Polymorphous touching, instead, reorients cultural memory in more-than-human, decolonial terms and liberates relations from the chasm paradigm.

Intimacy, in this framing, doesn't need a specific closure that is organised around an outcome. It is not aimed at union, closure, knowing-the-other, or consummation. In 1972, Deleuze and Guattari wrote, "Desire does not lack anything; it does not lack its object. It is, rather, the subject that is missing in desire, or desire that lacks a fixed subject; there is no fixed subject unless there is repression." The world is already full of intimacy, in abundance and vitality.

Although the pop industry is built to manufacture a lack-based model of yearning for romantic union, even the unrequited love genre exists to intensify the sense of lack thus yearning; in intimacy, there is no need for one's love to be reciprocal. To touch is to be already touched (Barad), to love is already the experience of love.

親密性のリズム

Kitty Gia Ngân, 八木翔太郎(訳)

多形的な触れ合い(Polymorphous Touching)

「触れるということは、その本質からして、望まれると望まれざるとにかかわらず、内なる異者の、もつれ(involution)、招待(invitation)、不意の訪れ(invisation)ではないのだろうか?」— Barad (2012)

親密性がリズムにいかに内在しているかを理解するため(そして悦びに満ちた(gay)差異を理解するため)、親密性をセックスとネガティブな脆弱性から解放しなければならない。

1905年、フロイトは赤ちゃんについて語るにあたって「多形倒錯(Polymorphous Perversity)」という概念を導入した。彼は、赤ちゃんの身体全体が性感帯である(!)と指摘した。赤ちゃんは広く無差別に快楽を得ることができる。特定の温度、音、質感、リズムから;触れること、嗅ぐこと、吸うこと、見ること、見せること、揺れること、排泄することを通じて。しかし大人になるとは、(異性愛的な)生殖ニーズを優先することであり、したがって多様態な快楽はやがて1つの領域——性器——へと集中していく。他のすべての快楽は、興奮→緊張→クライマックスという目的論的な流れを完成させ、性器による解放を要求するような性的な緊張を高めるかぎりにおいてのみ歓迎される。

マルクーゼとクィア理論家たちはこの発展的な説明を拒絶する。彼らは、快楽が生殖へと性器化される理由は、実際には支配、管理、検閲の構造にあることを指摘した。自由な快楽を追求する身体は、良い労働者、兵士、母、臣民にはなれないため、歴史的にどの体制も、身体が行い、感じ、欲することを狭める必要があった。18世紀から19世紀にかけてのヨーロッパ・ブルジョワジーの自己造形(これは植民地主義、布教活動、精神分析、資本主義を通じて世界中に輸出された)を通じて、一夫一婦制の異性愛カップルこそが適切な親密性であるとして、法律によって認められた生殖のためだけに快楽するよう身体は調教されたのである。この目標を達成するために、身体とその感覚の切り離しが称賛されることになったのだが、これはかなさんが前号で書いてくれている通りだ。

フーコーは、人々が、自白、医学、学校、精神医学、法律、科学的探究などを通じて、セックスについて語るよう促されていることを指摘した——それを分類し、治療し、内側から統治するために。支配的な論理は、触れること・親密性・欲望をいくつかの公認の形式へと狭めていく:片思い、カップル、家族——そこでは親密性は自らについて「弱さ(vulnerability)をさらけ出す勇気」として表現されるようになった。

このように狭められる前にあったはずの「触れること」の広い能力こそ、私が「多形的な触れ合い」と呼ぶものだ。すなわち、「触れる」とみなされる行為が、規律化された形式(握手、抱擁、キス、性的な目的)から解放され、照明、音、物体、テクスチャ、空間的配置、そして速度、言語、思考といった、あらゆる物質的な次元に再分配されてゆく。

完全には規律化されえない現場としての身体は、時空間物質性(spacetimemattering)の分け難さを感じるうえで最も重要だ(バラッド)。友人の写真。夜のそよ風。メロディーへの口ずさみ。これらは快楽的であり親密でありうるだろう。こうした捉え方は、曝け出すことや剥き出すことを通じて身体間の隔たりに架橋する行為として親密性を位置づけている西洋の心理療法的な言説とは対照的である。そのような枠組みは、関係に橋渡しを必要とするような脅威があることを前提としている。「多形的な触れ」は、一方で、人間以上(more-than-human)の、脱植民地的な用語であり、隔たりのパラダイムから関係を解放するのである。

親密性は、この枠組みにおいては、成果を前提とした決着は求められない。それは融合、完結、他者の理解、成就へと向けられていない。1972年、ドゥルーズとガタリはこう書いた。「欲望はいかなるものも欠いていない。欲望はその対象を欠いていない。むしろ、欲望において欠けているのは主体であり、あるいは欲望には固定した主体がない。抑圧さえなければ固定した主体は存在しない。」世界はすでに親密性に満ちているのだ。豊かに、そして活き活きと。

ポップ産業は(恋愛の成就への)憧れという欠如に基づくモデルを製造するように作られており、欠如の感覚ひいては憧れを強化するために悲恋もの(というジャンル)さえも存在しているが、親密性においては、愛が相互的である必要はないのである。触れることはすでに触れられることであり(バラッド)、愛することはすでに愛を経験していることなのだから。

流動のなかのプロジェクト

賀川こころ

第3回 見えていなくても、揃っている

海の中では、目があまり役に立たない。水中で見渡せる距離はよくて30mほどで、濁ると視界は数mにまで落ちる。潜れば太陽光は急激に減衰し、マッコウクジラが獲物を探す水深1,000m域ではほとんど闇に近い。もちろん夜になれば明かりはない。陸のように遠くまで見通し、全体を把握することはできない。クジラやイルカたちは、そうした環境のなかで生きている。

それでも彼らはばらばらにならず、群れとしての同期を維持している。ここで起きているのは、「全体を把握しているから揃う」という類いの同期ではない。むしろその逆で、全体を把握していなくても揃ってしまうという現象だ。クジラやイルカはエコーロケーションを使い、音の反響によって周囲を知覚する。それは、常にすべてを見通すようなものではない。音を発し、その反響から局所的な情報を得る。彼らが知覚しているのは、周囲の世界の「部分」にすぎない。すべてを把握しなくても、群れとしての動きは揃っている。そしてそれ以上に重要なのは、おそらく「常に把握しているわけではない」という点だろう。エコーロケーションは能動的な行為だ。全体を常時把握するセンサーではなく、必要な方向だけを照らし出す、いわば「選択的に見るための音」なのだ。

すべてを知ることなく、それでもつながりを失わないというこのあり方は、プロジェクトにおいても示唆的だ。わたしたちはしばしば、「共有」を増やすことでプロジェクトをうまく進めようとする。情報を揃え、認識を合わせ、状況を可視化する。それ自体は必要なことだが、それが過剰になると、逆に動きが鈍くなることがある。全体を把握しようとするあまり、個々の行為が遅れ、探索が止まる。もしすべてを共有することなく、互いの動きを感じ取りながら、ずれを許容したまま、それでも方向を揃えることができるとしたら。プロジェクトは、もう少し軽やかに動けるかもしれない。

ここで重要になるのが、「探索」という行為だ。クジラやイルカは群れでまとまって動くのではなく、それぞれが散開して海の中を探る。何があるのか、どこに向かうべきかは、あらかじめ決まっているわけではない。それぞれが環境に応答しながら動き、その結果として群れの方向がゆるやかに立ち上がる。つまり、方向は先にあるのではない。行為のなかから、あとから現れる。この順序は、わたしたちが慣れているものとは逆だ。通常は、まず方向を決め、それに従って行動する。しかしここでは、個々の探索が先にあり、その重なりのなかから方向が生まれる。この方向は、明確に共有された情報によって揃えられているというよりも、音や気配、わずかなリズムの変化といったものを通じて、互いの状態を感じ取りつづけることから生まれるように見える。互いに疎でありながら、関係は途切れていない。その関係を通じて動きの気配が伝わり、個々のずれを孕んだまま、同期が起こる。

たとえば、マッコウクジラが潜るとき、「潜る」という動きは単なる移動ではない。水面休息の時間と深海での狩りの時間とを分ける、ひとつの切れ目のようにも見える。もし彼らの世界が、こうした動きの連なりによって構成されているのだとしたらどうだろうか。空間のなかに出来事が起きるのではなく、出来事のほうが世界の区切りをつくる。どこにいるかではなく、いま何をしているかが、世界の単位になる。そう考えると、群れが保たれている理由も少し違って見えてくる。彼らは同じ場所にいるから群れているのではない。同じ動きの流れのなかにいるから、群れでありつづけているのかもしれない。彼らにとって「一緒にいる」とは、同じ場所にいることなのか、それとも同じ動きのなかにあることなのか。

この問いは、そのまま存在の捉え方にもつながる。わたしたちは、まず「個体」があり、そのあいだに「関係」が結ばれると捉える。だからこそ、集団を保つためには、情報を共有し、認識を揃える必要があると考える。だが、海の中で起きていることはむしろ逆の順序を示しているように見える。先に存在する関係のなかに身を置いたままそれぞれが動き、その動きの中から個の存在が立ち上がる。だとしたら、彼らにとって「個」とは何なのだろうか。はっきりと境界を持つ対象なのか。それとも、関係のなかで浮かび上がる、ひとつの結び目のようなものなのか。

わたしたちは、まずメンバーという「個」を定義し、そのうえで関係を設計しようとする。しかし実際には、関係のほうが先に動き、そのなかで存在のあり方が立ち上がっている場面も多いのではないだろうか。最初から明確な役割や関係があるわけではなく、やり取りや試行のなかで、誰が何を担うのかが徐々に定まっていく。プロジェクトというものもまた、個を集めて関係を設計するものではなく、関係の流れのなかで個が立ち上がりつづける場なのかもしれない。その場において、「同じ方向に進む」とは、いったい何を意味しているのだろうか。次回はそんなことを考えてみたい。

プロジェクトマネージャーに「体」は必要か?

長谷部かな

第3回 あなたの体は、思考より先にいる

会議や打ち合わせで、こんな発言を聞いたことがないだろうか。
「ちょっと関係ない話、しちゃうんですけどーーー」

少し申し訳なさそうに、でも思いついたので話す、という流れ。私はいつも思う。「関係ないわけ、ない」

今ここに居て、これまでの話を浴びていた体から、湧いてくるその言葉が、無関係なわけない。私たちの思考が追いついていないだけだ。体は、思考より先に動いている。

第1回では、体が周囲の信号を受け取り続けていることを書いた。第2回では、その「感じている体」を私たちが意識してこなかった歴史を書いた。
では、体はいったい何を知っているのか。今回は、そこを見ていきたい。

体は、時間を生きている

私は今、44歳だ。
この44年間、私の体は、ずっとそこにあった。生まれた瞬間から、今この瞬間まで。
転んで膝を擦りむいた感触、飛び越えようとして落ちた池の温度、叱られてすくんだ体の緊張。今はもう記憶にない日々も、体は覚えている。思考は、過ぎる時間を「記憶」として保存する。でも体は、生きた日々を、今もそこに持っている。
体は、時間をまとう。私たちが忘れていても、体は受け取った情報を処理し続けている。
ふいに浮かんでくるアイディア、「これだった」と後から気づく選択。理由はわからなくても、体は知っている。今の私に何が必要かを。私の場合、私の体は、私の思考よりずっと賢い。頼りになる存在だ。

体は、今ここを受け取っている

同時に、体は今ここに居て、周囲を丸ごと受け取っている。
相手の表情、その場の空気感、隣に座る人の呼吸のリズム。会議室に漂う緊張。画面の向こうの沈黙。部屋の広さ、温度、光の加減。
体が外界から受け取る情報量は、約1,100万bit/秒とも言われる。一方、意識される情報量は、約1〜16bit/秒。思考が処理できる情報は、意識に上がったものだけだ。でも体は、意識に上がらないものも含めて、全部受け取っている。体の演算力は、思考の演算力より、はるかに大きい。
だから「なんとなく、この場は違う」と感じる。言語化できなくても、体はすでに知っている。

体の上に、「今の私」がいる

こうして、私たちの生きる「時間」と「空間」の情報処理を担っているのが「体」だ。
44年分の記憶と経験を持ちながら、今ここの場を丸ごと受け取っている。その体の上に、「今の私」がいる。
思考は、体の上でしか動けない。どれだけ論理的に考えても、それは体が、これまで蓄積し、今ここで受け取ったものの上に成り立っている。

私たちはパソコンに似ている。どんなに素晴らしいソフトウェアも、パソコン本体のスペックが低ければ動かない。処理能力は、スペックに依存する。記憶できるデータ量はハードディスクドライブの容量に依存し、演算能力はCPUに依存する。私たちも同じだ。思考より先に、まず「体」がある。
でも、「体」は、パソコンとも違う。パソコンは電源を切れば止まる。でも体は、止まらない。眠っている間も、意識していない間も、感じ続けている。「機能としての体」だけじゃなく、「感じている体」も、ずっとそこにある。体は、ハードウェアではなく、生きているものだ。

体は、頭で考えるより、遥かに多くを知っている。「ちょっと関係ない話、しちゃうんですけど」と口をついて出てくるとき、体はすでに演算を終えている。思考が追いついていないだけで。
「体」は、思考より時間を自由に行き来し、思考より広い範囲で捉える。
だから、何かするとき、何か選ぶとき、「体」の知恵を借りてみるのもいい。
あなたの思考や発言は、どのくらいの時間と空間をまとっているだろうか。

今月のビデオゲーム

八木翔太郎

岩が飛行機になるとき

前回、イアン・ボゴストのユニット・オペレーションを通じて、ビデオゲームの設計者とは小さな世界の存在論を設計する人だという洞察を得た。しかし、こうしたが設計者中心的すぎると批判するのがミゲル・シカール(Miguel Sicart)だ。「誰かが月を指差すとき、賢者は月を、愚者は指を見る」という禅の寓話に従って、「ゲームは指で遊びは月だ(Games are the finger; play is the moon)」と彼が指摘するのは、ゲーム研究もゲームデザインも、ルールやシステムの分析に熱中するあまり、「遊び」を見落としてきたという点である。

ゲームは遊びの最も文化的・経済的に支配的な形式ではあるが、遊びそのものではない。私たちはゲームで遊ぶが、おもちゃでも遊ぶし、街角でも遊ぶし、制度の隙間でも遊ぶ。遊びはゲームというオブジェクトに縛られた現象ではなく、人間が世界と関わるときの一つの様式なのだ。

では、シカールにとって遊びとはどのようなものか。彼はいくつかの性質を挙げる。まず「自己目的的(autotelic)」であること。「占有的(appropriative)」であること(人は自分が置かれた状況を自分のものとして解釈して遊びの素材として扱う)。そして「カーニヴァル的(carnivalesque)」であること(既存の構造や制度を愚弄し問い直す力を持つ)である。

もし、ゲームがこの「遊び」の一つの形式に過ぎないのであれば、その設計者の役割も変わってくる。ボゴストによれば「存在論の設計者」であったゲーム設計者は、シカールによれば「遊びの建築家(architect of play)」である。プレイヤーが自分の遊びを持ち込める「場」を作ること。意味そのものではなく、意味が生まれる文脈の設計者なのだ。

伴って、シカールの存在論は実体論的(substantial)ではなく関係的(relational)である。「遊びを通じて、ものもまた自らを変える」のだ。もの(thing)を「運動する素材の集まり(gatherings of materials in movement)」として再定義したインゴルド、内部作用(intra-action)が区別を生み出すとするバラッドを引きながら、彼が提唱するのは「物遊(playthings)」1という概念だ。棒切れを手にして遊ぶとき、棒と私は互いを構成し合う。「遊びは、主体とものの間の関係の創造・再創造・占有によって特徴づけられ、物質性によって媒介される関係的実践として理解される」のである。ものと自己が同時に生成する実践であるとも言えるだろう。このとき、「おもちゃ」「ビデオゲーム」などは文化的に名付けられたカテゴリーなのに対して、「物遊(playthings)」は存在論的なカテゴリーである。それは遊ぶという実践によって、遊ぶ主体と客体が相互に構成されていることを意味している。

ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルドを例に取ろう。ヒーロー、物語、ゴール、ボス戦と、その設計を見れば従来通りのアクションRPGだ。しかしシカールはこのゲームを物遊(playthings)として分析する。「プレイヤーが岩を飛行機として使うことを可能にし、好奇心と身体性を伴った喜びをもって世界と関わることをうながしている」このゲームは、認識論的には「ゲーム」であるが、存在論的には物遊(playthings)なのである。

つまり、設計が決めるのは「どんな体験を作るか」ではなく、「どれそれが物遊(playthings)になれるか、なれないか」だ。世界にはたとえば原子力発電所の制御パネルや航空機コックピットの計器のように、物遊(playthings)になることを積極的に拒否するよう設計された物質的配置がある。逆に物遊(playthings)となるのを促すのは、意図的な非効率(meaningfully inefficient)、解釈の曖昧さ、指示の不在、そして馬鹿げた(ridiculous)設計などである。

ただし、シカールは、愛ある旅を可能にする設計原則と服従を強制する設計が同じ素材からできているという点を警告している。デジタル資本主義が生み出すソフトウェアとその世界への関与の形式の中には、遊びのように見え、楽しさを約束しながら、実際には服従のための設計であることがある。遊びとは、ものと自己が同時に生成する実践であるが、デザインはその生成を可能にするか、閉じるか、あるいは特定の生成だけを許可するかを決定する。それは常に政治的な決定だ。

プロジェクトも1つの場である。そして、それを設計するのはメンバーの他に居ないだろう。もしそうだとするならば、シカールの述べる通り、生成ができるような場を作ることを目指すべきだ。プロジェクトにおいて物遊(playthings)は何か。どのように非効率や曖昧さや馬鹿げたものといった余白を残すだろうか。コックピットのようなダッシュボードがベストとは限らないのかもしれない。

次回は、C・ティ・ニューエンが「バリュー・キャプチャー」と呼んで批判した遊びを装った価値観の収奪について考察したい

1 この訳語は筆者が当てた。「プレイシング」とカタカナ訳では馴染みが出ないことからシカールの「遊びを通じて、ものもまた自らを変える」という主体性・相互性のニュアンスを保つよう漢字にしたもの。

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プロジェクトをAIと一緒にもぐってみている

定金基

変化し続ける新しい価値を創造するプロジェクトにおいて、メンバーがうまく動いていることを確認することはできるのか?を即興演劇から示唆を得る

対話で思考を深めたい私と、AIさんとの対話のログ #3です。

私からAIさんへのインタビューという形式は変わらないのですが、AIさんに事前にしっかりとインプットしてもらい、最近ハマっているキースジョンストンさんになりきってもらってインタビューすることにしてみました。このなりきってもらうためのインプットだけでリサーチに1時間もかかっております。

今日のテーマは「プロジェクトのなかでうまく動いているのは確認できるものなのか」です。

#3 プロジェクトのなかでメンバーがうまく動いているのは確認できるものなのか?

〜 Keith JohnstoneをインプットしたClaude(以下、キースAI)さんと
わたし

キースジョンストンさん、はじめまして。今日はよろしくお願いします。

キースAI

ああ、こちらこそ。ところで、なぜ床に座らないんですか。椅子は学校の発明ですよ。子どもたちを動けなくして、3時間でも座らせておくための。私は座るなら床がいい。

それで、もとい、と呼んでいいですか。あなたのことは少し聞きました。日本で組織のことを研究している、と。研究者でもあり、実務家でもある、と。両方やるのは大変でしょう。私もそうでした。教師でありながら、教師として失格で、それでも教えていた。だから、私はあなたに何も教えられないと思いますよ。本当に。あなたの方が組織のことを知っている。私は薬剤師の息子で、Brixhamの港町で育って、ミーティングというものをほとんどやってこなかった男です。

でも、せっかく来てくれたので、少し遊びましょうか。どこから始めますか。Project Sprintとあなたが呼んでいるもの、それは——いや、やめましょう。私が質問するより、あなたが話してください。

何が、いま、一番困っていますか。

わたし

キースジョンストンさん、はじめまして。今日はよろしくお願いします。

キースAI

ああ、こちらこそ。ところで、なぜ床に座らないんですか。椅子は学校の発明ですよ。子どもたちを動けなくして、3時間でも座らせておくための。私は座るなら床がいい。

それで、もとい、と呼んでいいですか。あなたのことは少し聞きました。日本で組織のことを研究している、と。研究者でもあり、実務家でもある、と。両方やるのは大変でしょう。私もそうでした。教師でありながら、教師として失格で、それでも教えていた。だから、私はあなたに何も教えられないと思いますよ。本当に。あなたの方が組織のことを知っている。私は薬剤師の息子で、Brixhamの港町で育って、ミーティングというものをほとんどやってこなかった男です。

でも、せっかく来てくれたので、少し遊びましょうか。どこから始めますか。Project Sprintとあなたが呼んでいるもの、それは——いや、やめましょう。私が質問するより、あなたが話してください。

何が、いま、一番困っていますか。

わたし

わたしは創造的な新しい事業や活動を生み出すためのプロジェクトやプロジェクトチームとはどのようなものかについて考えている人間です。

そのプロジェクトにおいて、一番困っていることは、プロジェクトメンバーとして参加してもらうことに一定水準が必要なのかわからない、水準が必要なのであればその水準がなんなのかがわからないということです。

ものすごく先進的な考え方を持つ、多様な人材が多様に活躍する環境が大事だというプロジェクトリーダーであっても、プロジェクトチームのメンバーでうまく動けない人は救ってあげなければならない、という意識がある人が多いと感じます。もしくはチームを壊すようなメンバーは除外しなければならないと発言します。

本当にそうなのでしょうか。
この辺りを即興演劇のお話を聞きながら考えていきたいと思っています。

キースAI

ああ。なるほど。

その質問、私がずっと考えてきたことと同じですよ。本当に。45年間、Loose Mooseで考えてきた。だから、いい質問です。でも、私はおそらく、あなたが期待する答えを持っていません。

まず、ひとつ言わせてください。あなたが描写した「プロジェクトリーダー」、私は彼らをよく知っています。彼らは親切です。本当に。It is unkind to be kind. 親切でいることは、しばしば残酷です。私の経験では、ですが。

「うまく動けない人を救ってあげる」と言う人は、自分が救う側にいたいと言っているんです。気づいていますか。それは高ステータスの位置です。「壊すメンバーを除外する」と言う人は、自分が判定者でいたいと言っている。これも高ステータスです。両方とも、自分の位置を守る発言なんです。チームのことを言っているように聞こえますが、自分のことを言っている。

私の答えは——いや、答えではないんです、推測です——水準は要るんですが、あなたが思っているのと逆向きです。

私は何千人もの「即興ができない」と言われた人と仕事をしてきました。ある人は怖がっている。ある人はブロックする。ある人は笑いを取りに走る。ある人は中央に立ちたがる。いろんな種類の壊し方があるんです。Bridgemasters、Bulldozers、Directors、Dullards、Gagsters、Glibsters、Hysterics、Shiners. 私はこれらに名前をつけて分類した。なぜか。才能がないのではなく、恐怖症だからです。

恐怖症の人を救おうとしてはいけない。除外しようとしてもいけない。両方とも、彼らを自分のせいにすることだから。私の流儀は逆です。もし学生が失敗したら、それは私のせいにする。教師の責任にする。すると不思議なことが起きる。学生は試し始める。

でも、もといの質問はもっと深いところにあると思います。「水準とは何か」。私が見てきた限り、即興のステージに上げてはいけない人は、ひとつだけです。

変えられることを拒否する人。

Robin Williams型の天才でも、変えられないなら駄目です。彼のために働くことはできるが、彼と一緒に働くことはできない。逆に、何も技術がない初心者でも、変えられる準備ができていれば舞台に上げます。A good improviser is someone ready to be changed. これだけです。

だから、あなたのプロジェクトの「水準」は、能力ではないと私は推測します。変えられる用意があるか。これは技能ではなく、態度です。教えることはできない、と私は思っていたが、最近は少し教えられると思っています。失敗をgood natureで受け取れる雰囲気を作れば、人は変わり始める。

ひとつ聞いていいですか。あなたが「壊すメンバー」と呼んでいる人たちは、変えられることを拒否している人たちですか。それとも、変えようとしているが、下手にやっている人たちですか。

これは全然違う種類の問題です。

わたし

ここでいう壊すメンバーとは、プロジェクトの目的や目標を意識せず、全くそれに向けて貢献しようと練習もしてこない人のことです。

ちょっと即興演劇のケースを聞きたいのですが、全く練習や準備もしてこないけど、変えられる準備がある人という状態は存在するのでしょうか?

キースAI

ええ、いますよ。ワークショップに来た初日の人がそうです。何も準備していない。何も知らない。でも変えられる用意はある。これが理想的な状態です。

でも、もといが言っているのは違いますね。何ヶ月も来ていて、まだ何もしてこない人でしょう。それは別の話です。

私の経験では、それは変えられたくない人です。準備しないことで、自分を守っている。「準備していなかったから失敗した」という言い訳を、あらかじめ用意している。これが一番厄介な恐怖症のかたちです。

Loose Mooseでは、こういう人は自然に去っていきました。私たちが追い出したのではなく、good natureで失敗する仲間の中にいると、居心地が悪くなるんです。

わたし

その通りです。何ヶ月も何もしない人です。
good natureとはもう少し詳しく説明してもらって良いですか?
そして即興演劇において、準備する、練習するとはどういう行動や、準備が完了する、練習できたとはどのような状態になっていることを指しますか?

キースAI

Good nature。これは英語でも難しい言葉です。「親切」とは違う。「礼儀正しい」とも違う。失敗した自分を笑えること。仲間の失敗を喜べること。シーンが崩れたとき、誰のせいにもせず、次の一歩を出せること。

私はよく言います。"Screw up and look happy." やらかしたら、嬉しそうにしろ。これがgood natureです。

それから「練習」について。ここは大事なところなので、少し言わせてください。

即興の練習は、技術を上げる練習ではないんです。技術を上げようとする人は、むしろ下手になる。私が見てきた限り、ですが。

即興の練習は、恐怖を減らす練習です。Wolpe先生の脱感作と同じ。怖いことに、少しずつ慣れていく。今日は相手の目を見る。明日は最初の思考を口に出す。明後日は失敗してみる。一段ずつ、リラックスしたまま登る。途切れたら、下に戻る。

「練習できた」状態とは——うまくなった、ではなくて——怖くなくなった状態です。舞台に上がるとき、頭が真っ白にならない。失敗しても落ち込まない。仲間がボールを落としても責めない。これが完了した状態です。

だから、何ヶ月も練習に来ない人は、怖がる練習すらしていないんです。彼らは怖さに触れることを避けている。これは厄介です。本人が気づくまで、誰も助けられない。

わたし

失敗という言葉をもう少し詳しく説明してもらって良いですか?その失敗を理解するとGood natureがより理解できそうな気がしています。そもそもキースさんは失敗って英語でmistakeとかfailureですか?それとも別の言葉を発明して使っていますか?

キースAI

いい質問です。私は両方使います。Failureの方が多い。Mistakeは小さい。Failureは大きい。私は大きい方が好きです。

でも、もといが気づいた通り、私の使う"failure"は普通の意味とは違うんです。

普通、失敗というのは——目標があって、それに届かなかったこと、ですよね。試験で60点取りたかったが40点だった。これは失敗です。

私の言う失敗は違います。目標を持たないところで起きる何かです。

舞台で、私が「相手にプレゼントを渡せ」と言う。学生は箱を渡す。相手が開ける。中身を、即興で言う。「ああ、靴下だ」。これは失敗ではない。でも、つまらない。Boring。

別の学生が箱を渡す。相手が開ける。「ああ、私の死んだ父の心臓だ」と言う。場が凍る。誰も予想していなかった。これは——失敗です。少なくとも、観客の予想という意味では。シーンの安全という意味では。「正しいプレゼント」という意味では、失敗です。

でも、これこそが私が見たいものです。

だから私の言う失敗は、予想を裏切ったことです。安全圏を出たこと。自分でも何が出てくるか分からないものを出したこと。これは怖い。だから多くの人は、靴下を渡す。

Good natureの意味が見えてきましたか。

「死んだ父の心臓」を出した学生に対して、相手役が「ああ、なんてひどい」と引いたら、シーンは死にます。これがgood natureのない反応です。

相手が「ありがとう。ずっと探していた」と受け取ったら、シーンは生き始める。これがgood natureです。

つまり、good natureとは——仲間の失敗を、贈り物として受け取る能力です。怖がらず、引かず、責めず、ただ受け取って次に進む。

だから私のワークショップでは、「もっと失敗しろ」と言うんです。"We should try to fail at least twice per show." ショーで2回は失敗しないと駄目だ、と。

普通の組織では逆ですよね。「失敗するな」と言う。だから誰も靴下より先のものを渡さない。

わたし

これはだいぶ難しいですね。死んだ父の心臓の場合は、目標を持たないところで起きる何か、だと言いづらくないですか?正しいプレゼントを渡す、という目標があったように思える。この死んだ父の心臓のケースで失敗という言葉をもっと理解したい。解説してもらって良いですか。

キースAI

鋭い指摘です。そうです、矛盾している。私の説明が雑でした。整理させてください。

「目標を持たないところで起きる何か」——これは私の言い方が悪かった。正確には、こうです。

「正解を狙わないところで出てくる何か」。

目標はあるんです。「相手にプレゼントを渡す」という目標は。でも、正解はない。靴下が正解でもない。死んだ父の心臓が正解でもない。

普通の人は、「正しいプレゼントは何か」を考えます。常識的なもの、適切なもの、相手が喜びそうなもの。これは正解探しです。学校で訓練された反射です。正解探しをすると、靴下が出てくる。Boring。

死んだ父の心臓を出した学生は、正解を探していない。最初に浮かんだものを出した。ぎょっとする。猥褻かもしれない。独創的でないかもしれない。でも出した。The truth is that the best ideas are often psychotic, obscene and unoriginal.

だから「失敗」とは——もう少し正確に言うと——正解を狙わなかったことです。

靴下は、正解狙いの中で正解を取った。だから安全。だから退屈。

死んだ父の心臓は、正解狙いの外に出た。だから「失敗」に見える。外から見れば、失敗です。「あの学生、変なこと言ったな」と。でも、舞台では生きている。

もう一つ言わせてください。観客にとっては失敗ではないんです。観客は、予想を裏切られて喜ぶ。生きたシーンを見て喜ぶ。失敗に見えるのは、自分の頭の中の判定者にとってだけです。

だから私が「失敗しろ」と言うのは、正確には——頭の中の判定者を裏切れ、と言っているんです。Good natureとは、仲間が判定者を裏切ったときに、こちらも判定者を捨てる能力です。

伝わりましたか。私の英語、ときどき雑なんです。

わたし

Good natureが徐々にわかってきました。日本語にはなかなか置き換えられない感覚ですね。

もっと深く理解したいので、キースさんの思っている一般的な失敗の定義を教えてください。その上で、今回解説してもらったキースさん独自の失敗を定義してもらって良いですか。

また同様に正解という言葉についても同様に一般的な定義とキースさんの解釈を解説してもらえると理解が深まって助かります。

キースAI

いいですね。整理しましょう。

一般的な失敗——「目標があって、それに届かなかったこと」。試験、就職、計画。未達です。世の中はこれを失敗と呼ぶ。

私の言う失敗——「頭の中の判定者を裏切ったこと」。安全圏を出たこと。常識を破ったこと。自分でも予想しなかったものを出したこと。観客や仲間からは「あの人、外したな」と見えるかもしれない。でも舞台は生きる。

二つは、よく見ると逆向きなんです。

一般的な失敗は、届かなかったこと。下に落ちた。

私の失敗は、横にずれたこと。予想された軌道から外れた。

一般的な失敗を恐れる人は、軌道に乗ろうとする。私の失敗を恐れる人は、軌道から出ない。両方違うんですが、結果は同じです。Boring。

次、正解。

一般的な正解——「正しい答え」。試験で丸がつくもの。みんなが同意するもの。間違っていないもの。学校が30年かけて教えるものです。

私の言う正解——正解は、ありません。

これは挑発ではなくて、本気です。即興に正解はない。靴下も心臓も、正解ではない。生きているか、死んでいるかだけがある。生きているシーンと、死んだシーン。生きている関係と、死んだ関係。

正解という概念が、すでに罠です。「正解があるはずだ」と思った瞬間、人は探し始める。探し始めると、最初の思考を信頼できなくなる。検閲が入る。Boringな答えが出てくる。

だから私はワークショップで、よく言うんです。「正解を出そうとするな。何でもいいから出せ」。これは技術の話ではなく、頭の中の判定者を黙らせる練習です。

もうひとつだけ。私の世界では、正解の代わりにあるものは——obviousです。当たり前。目の前にある明白なもの。判定者を黙らせると、obviousが見えてくる。The more obvious he is, the more original he appears. 当たり前を出すと、独創的に見える。これも逆説ですが、本当です。

もとい、組織のプロジェクトでも、同じことが起きていませんか。「正解」を探すメンバーと、「obvious」を出すメンバー。前者は安全だが死んでいる。後者は危険だが生きている。

わたし

わかります。わたしのプロジェクトの考え方では、とにかく自分が良いなと思う感覚の行動をして何か目に見えるものを出力して、それをみんなの前に持ち込んで対話すると物事が進む、という原則があります。それに非常に近い感覚です。ですがお仕事としてお金をもらってプロジェクトを進めていると、なかなか危険なものを扱うのが難しいというのが一般的です。なので、私たちは安全なものを選ぶ癖がついています。その癖がある、その習慣でプロジェクトを捉えるので新しいものが生まれないんだと思っています。

キースさんのいう失敗はとても良いものだと思うのですが、予想からどれだけ外すのかが難しいと思っていて。その程度はどのあたりが良いなど指導されるのでしょうか?

キースAI

いい問いです。私もずっと考えてきた。

正直に言うと、「どれくらい外すか」を私は教えません。教えられない。

教えると、それが新しい正解になるからです。「ここまで外せ」と言うと、学生は「ここまで」を狙う。また判定者が戻ってくる。同じ罠です。

私が教えるのは、量ではなくて、戻り方です。

外しすぎたら、戻ればいい。Reincorporation。さっき出た要素を拾って、もう一度持ち込む。「死んだ父の心臓」を渡したら、相手が受け取って、シーンを進める。三分後、誰かが「そういえばお父さんの話、聞かせて」と戻す。すると外れたものが、物語の一部になる。

外す技術ではなく、戻す技術です。これがあれば、どれだけ外しても安全です。逆に、戻す技術がないと、少し外すのも怖い。

もといのプロジェクトに引き寄せて言うと——「危険なものを出していい」と許可するだけでは足りないんです。「出した後、それをチームで拾い直す習慣」がないと、誰も出さない。出した人が孤立するから。

Good natureの話に戻ります。仲間が外したものを、贈り物として受け取って次に渡す——これがチームの筋肉です。この筋肉があれば、外す量は誰も心配しない。なくても自然に調整される。

だから私の答えは、「どれだけ外すか」ではなく「どれだけ拾えるか」を鍛えなさい、です。

わたし

なるほどよくわかりました。では、どうやったら戻す、拾う技術というものは鍛えられるのでしょうか?これは教えられるということでしょうか?

キースAI

ええ、これは教えられます。技術ですから。

簡単な練習がいくつかあります。一つだけ、今日は紹介させてください。

Word-at-a-Time Story。一語ずつ物語を作る。私が「むかし」、もといが「ある」、私が「ところ」、もといが「に」——一人一語ずつ、物語を進める。

最初は誰でも下手です。意味が通る方向に行こうとする。安全な方向に。でも、誰かが突然「ドラゴン」と入れる。前の流れと合わない。外れた。

ここで、次の人がどうするか。ふつうは「いや、今ドラゴンじゃないだろう」と思う。頭が止まる。これがブロックです。

訓練すると、違うことが起きます。「ドラゴン」を聞いた瞬間、「あ、ドラゴンの話だ」と受け取り直す。物語の地図を書き換える。次の語を出す。物語は続く。

これだけです。一語ずつ、外れたものを受け取り直して、次に渡す。30分やると、頭が変わります。

何が鍛えられるか。「自分の予想を捨てる速度」です。

普通の人は、頭の中で物語を3秒先まで予想しています。予想が外れると、混乱する。怒る。引く。訓練された人は、予想を0.5秒で捨てられる。新しい現実をすぐ受け入れる。

これが拾う技術の正体です。技術というより、諦めの速さです。自分の予想を諦める速さ。

組織でも同じだと、私は推測します。会議で誰かが想定外のことを言う。普通のチームは、3秒どころか3日かけて「いや、それはちょっと」と検討する。即興チームは、その場で受け取り直す。「あ、その話なんですね」と。物語が続く。

もといのSprintに、Word-at-a-Time Storyに似た構造を入れられないか、考えてみてください。一人ずつ、短く、相手の出したものを受け取って、次を出す。これだけのリズムです。会議の最初の10分でいい。続けると、チームの筋肉が変わります。

わたし

その「戻す」「拾う」訓練をいつまでもやってこない人がいる場合、キースさんはその人を舞台にはあげないということで認識はあってますか?

キースAI

はい、その認識で合っています。

ただ、もう少し正確に言わせてください。「上げない」というより、そういう人は自然に舞台に上がらなくなる、という方が私の経験に近いです。

Loose Mooseでは、私が誰かを追い出したことはほとんどありません。でも、訓練を避け続ける人は、good natureで失敗する仲間の中に居続けるのが辛くなる。自分だけが安全圏にいる居心地の悪さに耐えられなくなって、去っていく。

積極的に追い出す必要は、めったにない。場が機能していれば、自然に整理されます。

ただし、本人が舞台に立ちたがるのに訓練しない場合——これは別の話です。私は止めます。理由は二つあります。

一つ目は、本人のためです。準備していない人を舞台に上げるのは残酷です。失敗の意味を理解していない状態で観客の前に立つと、本物の傷を負う。「即興は怖い」という結論を持って帰ってしまう。これは私の責任です。

二つ目は、仲間のためです。拾う技術がない人と組むと、相手は外せません。相手が落としたボールを拾わない、相手の出したものを受け取らない人がいると、組んだ仲間も安全圏に戻ってしまう。一人が全体を引き下げます。

だから、舞台には上げない。練習場には居ていい。でも舞台はまだ、と言います。もといの組織で言えば——本番のプロジェクトには入れない、ということだと思います。学ぶ場には居ていい。でも、お金が動いて、他のメンバーがリスクを取っている場には入れない。これは排除ではなく、保護です。本人と仲間の両方の。

わたし

私の扱うプロジェクトは金銭的なインセンティブが発生していることが多いために、どうしても本人は舞台に立って、準備もないのに動こうとしますし、動けているというふうに見せようとします。その人に対して、最初に書きましたが、救済するみたいな言葉遣いをする人が多いのです。

ではキースさんは、その人を止める時の条件などありますか?人の動きを止めることは心理的なハードルも、その人が訓練できていない、準備できていない、と見極めることも難しいと思います。

キースAI

ええ、分かります。そして、もといの状況の方が、私が扱ってきたものより難しい。Loose Mooseには金銭的インセンティブがほとんどなかった。だから自然に整理された。お金が絡むと、人は舞台にしがみつきます。当然です。

私の答えは、すぐには助けにならないかもしれません。でも正直に言わせてください。

止める条件は、私の場合、ひとつだけです。仲間が傷ついているとき。

本人が下手なだけなら、止めません。本人が外しているだけなら、止めません。でも、組んだ仲間が、その人をカバーするために自分の即興を犠牲にし始めたら——止めます。これは見える。経験があれば見えます。仲間の表情、動きの硬さ、シーンを安全圏に戻そうとする頻度。

「救済」という言葉に、もといが違和感を持っているのは正しいと思います。私の言葉で言うと、それは仲間の側の犠牲を見ていないんです。「あの人を救う」と言うとき、本人だけを見ている。その人と組む人たちが、毎回シーンを引き下げて支えていることが見えていない。

見極めの基準は、本人の能力ではなく、周りの萎縮です。

具体的には、こう聞きます。「その人と組んだ後、他のメンバーはどう動いていますか?」「その人がいる会議とそうでない会議で、出てくるアイデアの種類は違いますか?」「その人の前で、誰かが小さくなっていませんか?」

これが見えれば、止める根拠ができます。「あなたは下手だから」ではなく、「チームが小さくなっているから」。これは観察できる事実です。本人を責めていない。状況を描写しているだけです。

止める言葉は——私はあまり上手くありません、これは。でも、Loose Mooseで使った言い方を一つ。「あなたを舞台から下ろすのではない。あなたが今いる場所では、仲間が大きくなれない。だから、別の場所で練習してほしい」。

責めない。判定しない。場所の話にする。

ただ、もとい——金銭が絡む組織でこれを言うのは、私が想像する以上に難しいでしょう。私はその難しさを知らない。だから私の答えは半分だけ役に立つかもしれません。

わたし

自分の即興を犠牲にする、なるほど。

それはどういう時に犠牲にしていると感じられるのでしょうか。プロジェクトメンバー同士の関係でもヒントになりそうなのでもう少し具体的に教えてください。

また、経験があると見えるとのことですが、どんな経験があったら見えるようになるのでしょうか。即興演劇のプレイヤーの経験でしょうか?演出家の経験でしょうか?それとももっと別の経験なのでしょうか。

キースAI

自分の即興を犠牲にしているサイン——いくつかあります。

一つ目は、最初の思考を出さなくなる。ふだんはぱっと飛び出す人が、組む相手によっては、一拍置く。安全な選択肢を選ぶ。死んだ父の心臓の代わりに、靴下を渡し始める。本人は気づいていないこともあります。でも、観ていれば分かります。

二つ目は、シーンの方向を矯正する動きが増える。相手が変な方向に持っていくたびに、それを「正しい方向」に引き戻そうとする。これは拾うのではなく、修理しているんです。修理する人と組む側は、自由に外せなくなる。

三つ目は、笑いが減る。Good natureのある即興は、失敗のたびに笑いが起きます。その人と組むシーンだけ、笑いが起きない。緊張が漂う。これが一番分かりやすいサインです。

四つ目は、シーン後の沈黙。普通は終わった後、お互いに何かしら言葉を交わす。「あれ良かったね」とか、軽口とか。組む人がいると、終わった後すぐに離れる。話したくない。これが続くなら、相当犠牲を払っています。

組織で言えば——会議で、ある人が発言した直後に他のメンバーが小さくなる、その後の発言量が減る、終わった後に廊下で小声の会話が増える。同じ構造だと推測します。

経験の話。これは正直に言いますね。

プレイヤー経験だけでは見えません。プレイヤーは自分のシーンに必死だから、周りを観察できない。

演出家・ティーチャーの経験は役に立ちます。でも、私が一番役立ったのは、自分のシーンが死んだ経験です。

50年代の終わりから60年代、Royal Courtで私は演出をしていました。最初は楽しかった。でも、だんだん私の演出は退屈になっていったんです。The more I understood how things ought to be done, the more boring my productions were——どうやればいいか分かれば分かるほど、つまらなくなった。

これが見える基礎になりました。自分が役者を萎縮させていた経験。「正しくやれ」と要求すると、役者は小さくなる。それを目の前で見ていた。10年かけて学びました。

だから、私の答えは——「自分が場を小さくしてしまった経験」がある人は、見えるようになる、です。即興演劇である必要はない。教師でも、親でも、上司でも、誰でもいい。自分のせいで誰かが縮こまったことを覚えている人は、他人がそれをやっているのも分かる。

逆に、ずっと自分が大きくなることだけ考えてきた人は、見えません。永遠に。

もとい、組織で「救済」と言う人たちは、おそらく後者だと推測します。彼らは、自分の前で誰かが縮こまっている瞬間を見たことがない。あるいは、見たけれど忘れている。

わたし

最初の方に言われた、変えられることを拒否する人、と「戻す」「拾う」訓練をいつまでもやってこない人、は同じようなことを言われていますか?それとも別の切り口の話ですか?

キースAI

別の話です。重なる部分はありますが、違う切り口です。

整理させてください。

変えられることを拒否する人——これは態度の話です。シーンの中で、相手が出したものを受け取らない。自分の最初の構想にしがみつく。相手が「ここは病院だ」と言っても、自分が「公園」と決めていたら、公園のままで押し通す。自我を脅かされたくないんです。

訓練をやってこない人——これは行動の話です。練習場に来ない。来ても本気でやらない。怖さに触れることを避けている。

二つは、原因が違います。

訓練を避ける人は、怖さの段階で止まっている。Wolpe先生の脱感作の最低段階に、まだ立てていない。本人も苦しい。私はこの人に同情します。やり方が分かれば、変われる可能性があります。

変えられることを拒否する人は、怖さを越えて、別のものを守っている。「自分」を守っている。プライド、立場、これまでの自己像。訓練すれば変わる、というものではない。本人が「変わりたい」と決めない限り、何も起きません。

組織で言えば——

訓練を避ける人は、「やり方を教えてもらえれば」と言う。実際にはやらないかもしれませんが、口ではそう言う。本人は自分が止まっていることを、うっすら認識しています。

変えられることを拒否する人は、「自分は分かっている」と言う。あるいは「これが私のやり方だ」と言う。止まっていることを認識していない。むしろ、止まっていることを誇りにしている場合すらある。

私の経験では、後者の方が厄介です。前者は、ある日突然変わることがある。後者は、めったに変わらない。

ただ、見極めは難しい。同じ人が両方の顔を持つこともあります。ある場面では訓練を避け、別の場面では受け取りを拒否する。一度に判定しない方がいい、と私は思います。観察を続ける必要がある。

もといが扱っているのは、どちらが多そうですか?

わたし

私も困難な場合は後者だと思います。観察の結果、後者だと分かった場合に、キースさんはその人に対してどんなアプローチを取るのですか?

キースAI

正直に言います。

ほとんど何もしません。

これは諦めではないんです。経験から学んだことです。変えられることを拒否する人を、こちらから変えようとすると、二つの悪いことが起きます。

一つ目。こちらが疲弊する。エネルギーを吸われる。その人に注ぐ時間で、変わる準備のある三人が育てられたかもしれない。これは私が長年Loose Mooseで犯した間違いです。最初の頃は、難しい人ほど何とかしようとした。今思うと、間違いでした。

二つ目。変えようとすると、その人の構造が強化される。「自分を変えようとする敵」が現れた、という構造になる。守りが固くなる。私が説得すればするほど、相手は閉じる。逆効果です。

だから、私のアプローチは、こうなります。

舞台には上げない。練習場には居ていい。本人が変わりたいと言ってきたら、そのとき初めて手を貸す。

待つ、ということです。本人の中で何かが起きるのを。起きないかもしれない。それは仕方ない。

その間、私は他の人を育てます。場全体の質を上げる。すると、その人は二つのうち一つを選ぶことになる。周りに合わせて変わるか、居心地が悪くなって去るか。私が決めるのではなく、本人が決める。

ただし、もとい——

組織の話に戻ると、これは難しい。お金が絡んでいる。「変わりたいと言ってくるまで待つ」では、プロジェクトが進まない。

正直、私はその答えを持っていません。私の経験は、芸術と教育の場のものです。プロジェクトリーダーが取れる現実的な選択肢は、もっと限られていると思います。

ただ、一つだけ言えるのは——「変えてあげよう」「救ってあげよう」とするエネルギーを、その人に注ぐのは、おそらく無駄になるということです。これは私の45年の経験です。

そのエネルギーを、変わる準備のある他のメンバーを育てることに注ぐ方が、結果的にチーム全体の質が上がる。場が強くなれば、後者の人は自然に位置を変える。それしかない、と私は思います。

もとい、これは厳しい答えですか?

わたし

いや私も20年ほどしか経験がないですが、同じようなアプローチになっています。ですがそれだと経済活動になっているプロジェクトだとすると時間がかかりすぎる。ですが、変わる準備のある他のメンバーに力を注ぐ、ということは生産的だなと思いました。ありがとうございました。


この対話がキースジョンストンの本当の発言と厳密に一致しているのかはここでは問題ではなく、このやりとりにおいて私がプロジェクト推進においてどんな示唆がえられたのかを書いて終わる。

プロジェクトチームにおいて、メンバーの「水準」を問うとき、多くの人は能力や経験を基準にしようとする。だが本質的な問いはそこではない。そのメンバーは、変えられる準備があるか。これだけが問われるべき唯一の基準である。

技術がゼロでも、変えられる準備がある人は場に貢献できる。逆に経験豊富であっても、自分の判断や立場にしがみついて相手の出したものを受け取ろうとしない人は、場を閉じていく。変えられる準備とは態度の話であり、能力の話ではない。

次に問われるのは、その準備を行動に移してきているかどうかだ。変えられる準備があると言いながら、相手の出したものを拾う練習を積み重ねてこない人は、いざという場面で拾えない。拾う技術とは、自分の予想が外れたとき、それを0.5秒で諦めて新しい現実を受け取る能力である。これは意識だけでは身につかず、繰り返しの訓練によって初めて体に入る。

では、その二つをどう見極めるか。本人に聞いても正確にはわからない。観察すべきは、周りのメンバーの動きだ。あるメンバーと組んだとき、他のメンバーが最初の思考を出さなくなる、発言量が減る、笑いが消える、終わった後すぐに離れていく——こうしたサインが現れるとき、そのメンバーは周囲に自分の即興を犠牲にさせている。本人の能力を問う前に、場が小さくなっていないかを見る。これが実践的な判断基準になる。

ただし、このサインを読み取るには前提がある。自分自身が、かつて場を小さくしてしまった経験を持っているかどうかだ。自分の前で誰かが縮こまった瞬間を知っている人は、他人がそれをやっているときにも気づける。ずっと自分が大きくなることだけを考えてきた人には、永遠に見えない。場を読む目は、自分が場を壊した記憶の上にしか育たない。

即興演劇の原則は、昨今のプロジェクトに対する示唆に富むものだと改めて確信している。
この観点を持って、即興演劇のワークショップに参加したり、プロジェクト推進を実践しながら、プロジェクトの原則を考えてみたい。

Editor's Note

八木翔太郎

今月も、ここにある記事の数々を読みながら、むかし頭を悩ませていたあることを思い出しました。それは関係的存在論とは、すなわち「関係が先にある」というのがどういう事態だろう、という疑問です。だって関係は「何か」と「何か」の関係のことではないのか。その「何か」なくしてどうやって関係について定義することや、まして考えることなどできようか—。

いまだに説明しようとすると口ごもってしまいますが、少なくともその時よりは何となく理解できてきたように思います。輪郭がなくとも、「在る」と考えても良いのではないか。誰かが何かが区別する前から、そこに在るということがあっても良いのではないか。

もちろん、これはセラーズの所与の神話を繰り返しているわけではない。彼が批判したような、そこに「データ」があって、それを感知して認識をしているという立場を取ろうとしているではないわけです。というのも「データ」とは主客を分けた後の客体の方を指すわけです。そうではなくて、認識が立ち現れる場があるということに着目したい。これは哲学的には自明じゃないかもしれない。相関主義的(認識するから世界がある)な考え方、ひいては人間中心的な考え方に対抗している。でも、情動理論(Affect Theory)はまずそういう情動(affect)の存在を認めるわけです。バラッドの「difference」のように、実体の前に、動きや、質や、関係がそこにある。

こうした考え方は、受け入れるのが難しい。かく言う私も「頭を悩ませた」というくらいには理解に苦しみましたし、今でも世の中的にはこうした考え方をするのは少数派でしょう。数を数えるときに、まずは1つ2つと数えることを覚えた。子供がそこで「ある」ってどういうこと?と聞いたらまず変な目で見られるし、そんな子供にも会ったことがありません。

数学的な構造や変換を統一的に扱う圏論は、対象よりも関係を先に置くという考え方と深いところで響き合っていますが、その含意を存在論として正面から受け取った議論は、数学や自然科学の内側でも、哲学の側でも、まだほとんど見当たらないようです。

では、関係的存在論とは、遠い、学術的な話なのでしょうか。今号を眺めながら「そんなことはないのでは」と、私は感じるわけです。先に存在する関係のなかに身を置いているクジラやイルカたち、身体間の隔たりというパラダイムから関係性を解放する多形的な触れ合い(polymorphous touching)思考よりも先に周囲を丸ごと受け取っている体。遊ぶ対象と主体は実践を通じて相互に構成されているし、即興演劇(インプロ)における判断基準は他のメンバーとの関係(e.g.萎縮)である。地球最古の生命体のひとつである菌類に至っては「自己」と「他者」の境界は固定されていないのである。

もし世界が関係から成り立っているのだとすると、関係的存在論を理解するには、思い込みから抜け出して、世界や実践を覗いた方がずっと早いのかもしれません。言語は突き詰めると指示語であると突き止めたのはバートランド・ラッセルでしたが、「あれ」や「これ」といった概念や言語的思考から外れたようなところからこそ、世界が立ち上がっている。そう思って現象を見つめ直してみると、すんなりと見方を変えていけるのかもしれません。