前回、バクテリア研究者エシェル・ベン=ジェイコブの仕事を振り返っておこう。彼が示したかったのは、細胞という生命の最小単位がすでに集団的な知性を備えているということだった。バクテリアのコロニーは環境のストレスに応じてコロニー全体の形態を再編し、抗生物質への接触から集団的な記憶を形成し、遺伝物質の交換を通じてゲノムそのものを動的に書き換える。彼はこれらの現象を「クリエイティブ・ゲノミックウェブ」や「社会的知性」と名づけ、生命が機械には還元できない存在であることの証拠として提示した。
しかし彼の理論的枠組みは、観察の豊かさに追いついただろうか。コロニーの振る舞いを記述するとき、彼は繰り返し「個体が意味を解釈し、文脈に応じて判断を下す」という図式に立ち戻った。胞子形成は個体の「投票」による集団的意思決定として、形態型の転換は個体間の「意味に基づく対話」として語られた。こうした還元主義的な解釈の前で、集団のレベルで何が構造的に生じているのかの解明には、ついに到達しきらなかった。
そこにはつねに一つの前提があったように思われる。「個体が先にあり、ネットワークは後から出現する」という順序だ。バクテリアはまず個体として存在し、危機に際して膜を開き、遺伝物質を放出し、他者と繋がる。ここでネットワークはあくまで個体の延長として生じている。
一方で、菌類はこの順序を根本から崩す存在だ。菌糸体において、ネットワークは個体に先行する。個体性はネットワークの特定の読み方に過ぎず、「個体に戻る」という状態が原理的に存在しない。この転倒がいかなる意味を持つのか。それを問うているのが、イギリスの菌類学者メルリン・シェルドレイクである。
シェルドレイクが2020年に刊行したEntangled Lifeは、科学書でありながら認識論的な挑戦として読まれるべき著作だ。彼が最初に立てる問いは「菌類であるとはどういうことか(What is it like to be a fungus?)」というものだ。これはトーマス・ネーゲルの「コウモリであるとはどういうことか」を意識しているが、より認識論的なところまで及んでいる。すなわち、菌類を理解しようとするとき、私たちはいかなる概念的道具を持ち込んでいるのか、そしてその道具は菌類という存在に適しているのか、という問いである。
この問いの背景には、明確な知的系譜がある。ドゥルーズ&ガタリが『千のプラトー』で提唱した「リゾーム」(中心も階層もなく、どこからでも切り取って再接続できる成長様式)が、菌糸体というリアルな存在によって体現されているとシェルドレイクは見る。またリン・マーギュリスの共生論も重要な柱だ。競争を進化の主要駆動力とするネオ・ダーウィニズムに対し、マーギュリスは協働こそが常態であると主張し、個体という概念そのものに異議を唱えた。こうした系譜の上に、菌類の知見が私たちの概念そのものを更新することを、シェルドレイクは提示している。
彼の脱人間中心主義は単なるポーズではない。知性があるかどうか、記憶があるかどうか、意思決定ができるかどうか。これらの問いは全て、人間を基準として設定されたスケールの上で菌類を測ろうとする身振りだ。そのスケールを持ち込む前に、菌類という存在が何を問いとして突きつけているかを聞くべきであるという、認識論的提案をしているのである。
菌類を理解する鍵となるのが、anastomosis(菌糸融合)という存在様式だ。菌糸は伸長しながら他の菌糸と物理的に融合し、細胞質を共有する。この融合は例外ではなく常態であり、「自己」と「他者」の境界は固定されていない。これはベン=ジェイコブのゲノミックウェブと根本的に異なっている。バクテリアがストレス下において「緊急手段」として遺伝物質を交換するのに対し、菌糸体における融合は恒常的であり、個体の境界そのものが消えている。
さらに、木々が地下の菌根ネットワークを通じて糖を分け合い、化学信号を送り合う様子を彼は「ウッド・ワイド・ウェブ(Wood Wide Web)」と呼ぶ。一本の木が「個体」として振る舞うときにさえ、その根拠の多くは菌糸ネットワークにある。その意味では、個体とは関係の束の、一時的な結節点に過ぎないとさえ言えるだろう。ただし、この比喩は協調の側面を強調しすぎる危険もある。菌類と植物の関係には寄生や競争の側面もあり、協調と搾取の区別が菌糸の論理では根本的に溶解している。それが問題を複雑にすると同時に、問いを豊かにしてくれるのではないだろうか。
菌類はまた、脳なき問題解決の事例でよく知られている。迷路実験では、菌糸体が中枢制御なしに最短経路を形成することが示されている。菌糸先端が栄養勾配を感知し、資源の乏しい方向への伸長を後退させながら、ネットワーク全体として解を形成する。さらに奇妙な事例がある。菌類研究者Lynne Boddyが行った実験では、菌糸体をある木材ブロックAから伸長させ別のブロックBを発見させた後、Aから伸びた菌糸をすべて除去してAを新しいシャーレに移した。するとAから再成長した菌糸は、もうBが存在しない方向へと伸長した。菌糸体は「方向の記憶」を持っていたのだ。しかしその記憶がどこに宿っていたのであろうか。ネットワークはすでに除去されていたのである。この原理は未解明のままである。
菌糸体はこのように、私たちが知性や記憶と呼ぶものを、その基盤が特定できない形で体現する。彼は菌糸体を「群れ(swarm)」として理解しようとする試みを慎重に解体している。群れは単位に分解できる。アリ一匹一匹は取り出せる。しかし菌糸は取り出せない。成長した後は物理的に融合しており、一本ずつ解体することはできないからである。「ネットワークの視点から見れば、菌糸体は一つの連続した実体だ。しかしhyphal tipの視点から見れば、菌糸体は多数体だ」とシェルドレイクは言う。単位を問おうとすると、答えが観察のスケールによって変わってしまう。
こうした問いに対してシェルドレイクが提案するのが「ポリフォニー」というアナロジーだ。1980年代に音楽学者Louis Sarnoが録音した中央アフリカ共和国のAka族の音楽「Women Gathering Mushrooms」。女性たちが菌類を採集しながら歌うこの音楽は、誰もリードせず、誰も従わず、それでも複数の声が絡み合いながら一つの形を生む。彼曰く、一人の声を追おうとすると他が失われる。しかし「聴き方を柔らかくする」と、どの声にも存在しない「一つの曲」が浮かび上がるのである。
ポリフォニーのアナロジーは、菌糸体が何をしているかを感覚的に伝える。しかしなぜそれが可能なのか。シェルドレイクはこれを意図的に語っていない。「これほど多くの問いがあり、答えがこれほど少ない。それが面白い」。曖昧さに居続けること、複数のメタファーを同時に保持すること。それがシェルドレイクの認識論的立場だ。理論を提示することが彼の目的ではない。彼は、菌類を前に私たちが持ち込む概念的道具の限界を露わにしているのである。
シェルドレイクの「複数のメタファーを同時に保持する」という提案は、人間基準の概念で菌類を測ることに対する鋭い批判だ。しかし、彼が提案したのは問いを開いたまま保持することであって、集団知性の記述原理ではなかった。われわれは、ここから2つの問いを深ぼることができそうだ。1つは、吻合(anastomosis)が端的に示しているように自己の境界が固定されず伸縮するならば、「自己とは何か」を根本から問い直さなければならないという点だ。そしてもう1つは、バラバラな菌糸先端の探索がいかにして一つのネットワークとしての振る舞いを生むのか、という点だ。
この問いは、菌類をはるかに超えた射程を持つ。あらゆる生命システムに対して「どこまでの時空間スケールで目標を追求できるか」を問うマイケル・レヴィンの「認知の光円錐」はそれに対する1つの答えとなりうるかもしれない。単位の問いをダイナミズムの問いへと変換する彼の試みを、次回辿ってみたい。