The Project Theory Probe Journal

Issue 26
Mar. 31 2026

知能としてのプロジェクトを見い出したい

八木翔太郎

第2回 集団知性の最小形態としての細菌コロニー

この前提に、生物学の側から異議を唱えたのがイスラエルの物理生物学者エシェル・ベン=ジェイコブだ。彼は、生命が環境の問題を「解く」とき、それは刺激に対して正しい出力を返しているのではなく、状況の意味を解釈しながら自分自身を変えているのだと主張した。この差は些細に見えて根本的だ。出力が同じでも、そこに至るプロセスが「計算」なのか「解釈」なのかによって、そのシステムが何であるかがまったく変わるからだ。

ベン=ジェイコブは複雑系系の研究者らしくゲーデルの不完全性定理から議論を始めている。1931年、クルト・ゲーデルは、算術を扱えるほど十分に豊かな形式体系は、矛盾がない限り、必ず「その体系の中では証明も反証もできない命題」を含むことを証明した(ゲーデルの不完全性定理)。どれほど精密な規則の体系であっても、自分自身について答えられない問いが必ず残る。

通常これは「限界」の話として語られる。しかしベン=ジェイコブはここで視点を反転させたのであった。ゲーデルの定理は任意の形式体系に適用されるわけではない。適用されるのは、自然数の加算と乗算を表現できるほど豊かな体系だけだ。つまり、ゲーデルの定理に「かかる」ということは、すでにある種の深みを持つことの証明なのだ。

ベン=ジェイコブはさらに踏み込む。もし生物が完全なプログラムで動くだけの存在なら、自分を観察することも、状況に応じて変わることもできない。不完全だからこそ、生命には「自分が何であるか」を問い、自らを変える余地が生まれるのでは、と彼は論じる。これは単なる比喩ではなく、生命が情報処理機械とは異なる種類の存在であることの、形式的な論拠として提示された。

もっとも、「余地が生まれる」ことと「実際に意味を解釈している」ことの間には、大きな論理的跳躍がある。この跳躍を埋めることが、ベン=ジェイコブの実験的・理論的研究の課題となった。

その課題に取り組む場として、ベン=ジェイコブが選んだのが細菌だった。ともかく、最近というのは重要な存在である。地球上の生命は細菌から始まったのであり、マクスウェルの悪魔さながらに高エントロピーの無機物を低エントロピーの有機分子へと変換している。私たちの体内には約4万種の腸内細菌が住み、細胞内のミトコンドリアさえもかつての細菌であるように、高等生物は今なお細菌の能力に依存して生きている。

もしその細菌の段階ですでに「意味の解釈」が起きているなら、それは脳や神経系が登場するはるか以前から、生命の中核に知性が宿っていたことになる。ベン=ジェイコブの問いの射程は、知性の起源そのものに向かっていた。

彼は、細菌コロニーは「集団的な自己認識」を持つと考えた。バクテリアは単なる刺激反射ではなく、「自分たちが何であるか」を問い、その答えに応じて自分たちを変えている。そしてその「問い」と「変化」の過程そのものが、意思決定の原型であると。

この仮説を裏づけるために彼が注目したのが、Paenibacillus vortex だった。このバクテリアはベン=ジェイコブ自身が発見・命名した種であり、彼の研究の中心的な実験対象となった。同じ遺伝子・同じ環境で培養しても、コロニーは毎回異なる空間パターンを形成する。個々の細胞が化学信号でやりとりし、自分がこの集団のどの位置にいるかを認識しながら遺伝子の発現を変えている。中心にいる細胞、周辺にいる細胞、後方の細胞、それぞれが役割を変え、全体の秩序に参加している。

さらに、同じ親株のコロニーと異なる親株のコロニーを隣に並べると、バクテリアがそれを「見分ける」ことが観察される。自分たちの内部状態を持ち、他者の集団状態に応じて異なる成長パターンを示す。クォーラム・センシングと呼ばれる仕組みでは、一定の密度に達すると化学信号を通じてコロニーが「われわれは十分な数になった」と互いに認識し、遺伝子発現を同期させる。そして同じ化学分子でも、栄養が豊富なときと枯渇しつつあるときでは、まったく別の反応が引き起こされる。つまり、文脈に応じて同じシグナルが異なる「意味」を持つのだ。

ベン=ジェイコブはこれらの観察から、いくつかの理論的枠組みを提示した。一つは、細菌の化学的コミュニケーションを単なる信号伝達ではなく「意味に基づく言語」として捉える見方だ。同じ化学分子でも、細胞の内部状態や過去の経験に応じて異なる意味が割り当てられる。つまり細胞が構文だけでなく意味論を持つ言語を持っているという主張だ。もう一つは、ゲノム自体が単なる設計図ではなく、環境の問題を認識し、転移因子(ゲノム内に蓄積された遺伝子の断片ライブラリ)を使って自らを書き換える自己修正システムではないか(ゲノム・サイバネティクス)という仮説である。

しかし脱人間中心主義的な思想を追ってきたわれわれから見れば、これらの主張には根本的な難点がありそうだ。「自己認識」「意味」「言語」「意思決定」といった概念はいずれも、人間の経験に引きつけたアナロジーとして使われており、細菌に適用する際の定義が曖昧なままだ。たとえば「同じ分子が文脈によって異なる意味を持つ」という観察は事実だが、それは「意味」なのか、それとも異なる入力に対して異なる出力を返す精巧な機械に過ぎないのか。意思決定の主体がどこにあるか、記憶がどこに宿るか。こういった問いには、観察だけでは答えられない。より厳密には、「関係の中に答えがある」という可能性を記述するための概念的道具そのものが、当時は馴染みが薄かったのかもしれない。

2015年に他界したベン=ジェイコブが遺したのは、完成された理論よりも、還元主義が覆い尽くした科学に別の道を切り開いた「問い」そのものだったと言えるだろう。集団的な自己認識、文脈に応じた意味の生成、コロニー間の相互識別と経験からの学習—これらの観察は、その後の集団知性研究に大きなインスピレーションを与え続けている。

さて、ベン=ジェイコブの議論には、もう一つの深い含意がある。それは「自己とは何か」という問いが、知性を考える上で本質的に重要だという示唆だ。彼の研究対象はあくまで、細菌単体ではなく細菌コロニー、ゲノムではなく「ゲノミックウェブ」であったのだが、実はこれにもゲーデルの影が及んでいる。ゲーデルの不完全性定理からは「あるシステムは、自分自身より高度なシステムを自己設計することはできない」という補題が導かれるのだが、もしそうだとするのなら、個体ゲノムが自分を根本的に書き換えることは原理的に不可能だ。そこで彼が着目したのが「協働」だったのである。ストレス下のコロニーでは、一部の細菌が膜を開いて外部の遺伝子材料を取り込み、別の細菌が溶解して自身の遺伝物質をコロニー全体に放出する。こうして形成される「ゲノミックウェブ」は、個体ゲノムにとってのパラドクスを解きうる高次のシステムとなる。つまり個体の限界が集合の必然性を生み出すのであり、彼の研究対象がコロニーやウェブであったのも必然であったと言えるだろう。

ただ、彼の議論は「個体が先にあり、ネットワークは後から召喚される」という順序を前提にしていた。しかし、「自己とは何か」をめぐるこの問いを、さらに根本から問い直す存在がある。それが菌類だ。菌糸体では個体が先にあってネットワークを形成するのではなく、ネットワークが先にあり、個体性はその特定の読み方にすぎない。菌糸は物理的に融合し(anastomosis)、「個体に戻る」という状態が原理的に存在しない。

ベン=ジェイコブが知性と「自己」の関係を問うたとするならば、菌類はその問いをさらに鋭化させるのではないか。この直感を軸に、次回は、菌類についての科学的知見を描き直したメルリン・シェルドレイクを訪れたい。

ぼくプロジェクト
おじさん

八木翔太郎

(26) 記憶

The Rhythm of Intimacy

Kitty Gia Ngân

The Gay Science of Difference

One of the many unfortunate things about our world is that we are obsessed with standardization and expansion. We want to discover a pattern and develop repeatable methodologies that could be exported to foreign lands. From colonizing and evangelizing to teaching, researching and capitalising, the doctrine has been (1) finding sameness and (2) creating a system that perpetuates that sameness. These projects were so profitable that the rest of the world desires to become just as good at measuring, planning, controlling, and eliminating deviances.

But look sideways. Or underneath. There has always been another lineage—those who follow perversity, not order; difference, not sameness.

They want friends, not empires.
Conviviality, not morality.
Play, not legacy.

Statistics says: Minorities are less frequent.
They ask: Since when should frequency decide importance?
Systems says: Stabilize the center.
They insist: What if life only happens in instability?

Spinoza called it "ethics". Nietzsche, "the gay science".
Deleuze and Guattari, A Thousand Plateaus.
Donna Haraway, "making kin, not babies".

I call it intimacy—brief, intense moments of affect that open disproportionate possibilities for change.

What if projects become more gay (as in joyous)? What if we stop centering management and responsibility—and instead practice intimacy and response-ability?

Frankly, it is hard to imagine. We have been trying so hard to coerce the world into sameness.

There is a medical system whose point is to categorize everything "unusual" to become a "disease". Companies invented "team-bonding" to make employees happy enough (ie. not depressed) so that they would continue producing sameness (Gotby, 2023). In Vietnam, the highest compliment you can give a child is "ngoan"—to be obedient, predictable. Not alive. Not excessive. Not difficult.

The absence of intimacy expresses a widespread lack of (com)passion. It makes us compulsively avoidant, apathetic of conflict and intensity. The world has gone into a post-racial epoch yet "remains nonetheless profoundly racist" (Braidotti, 2013, page 98) and altogether hateful of differences.

A central practice of the Science of Difference is called de-familiarization—to shock the world into being more alive and unpredictable. Making the familiar strange again, like a conversation that doesn't follow scripts, a body that refuses its assigned role. The simple way to learn about it is sex—where rhythm, intensity, and unpredictability undo identities, prejudices and roles. Sexuality is a force that is capable of deterritorialized institutions (Braidotti, 1994). And beyond genital-sex, intimacy is everywhere (Deleuze and Guattari, 1980).

The problem is not that we don't know how to live in differences. It's that our life's configurations keep us choosing sameness over relation. Control over intimacy.

And yet—thankfully,
life keeps happening elsewhere.

親密性のリズム

Kitty Gia Ngân, 八木翔太郎(訳)

差異(Difference)のゲイ・サイエンス

わたしたちの世界の不幸のひとつは、規格化と拡大に取り憑かれていることだ。パターンを見つけ、再現可能な方法論を開発し、それを異邦へ輸出しようとする。植民地化から布教、教育、研究、資本化にいたるまで、その教義は一貫している:(1)「同じさ」を見出すこと、そして(2)その「同じさ」を永続させるシステムをつくることだ。これらのプロジェクトはあまりに利益を生んだため、残りの世界も同じように測定し、計画し、管理し、逸脱を排除することに長けたいと望むようになった。

でも、横を見てみよう。あるいは下を。もうひとつの系譜がつねに存在してきたのである—秩序ではなく逸脱を、同じさではなく差異を追う者たちの系譜が。

彼らが求めるのは友であり、帝国ではない。
コンヴィヴィアリティであり、道徳ではない。
遊びであり、伝統ではない。

統計学は言う:マイノリティの頻度は低い。
彼らは問う:いつから頻度が重要性を決めるようになったのか?
システムは言う:中心を安定させよ。
彼らは主張する:生(life)が不安定のなかにのみ生じるのだとしたら?

スピノザはそれを「エチカ(ethics)」と呼んだ。ニーチェは「ゲイ・サイエンス(gay science)」と。
ドゥルーズとガタリは「千のプラトー」と。
ダナ・ハラウェイは「親類をつくれ、赤ん坊ではなく(making kin, not babies)」と。

私はそれを親密さ(intimacy)と呼んでいる。それは、計り知れない変化への可能性を開く、刹那の強烈な情動(affect)の瞬間だ。

もしプロジェクトがより悦びに満ちたもの(gay)になるのだとしたら? マネジメントと責任を中心に据えるのをやめて、親密さと応答可能性(response-ability)を実践したら?

正直に言うと、これを想像するのは難しい。私たちはあまりにも世界に同じさを強いてきてしまったからだ。

「異常」なものを結局のところすべて「病気」に分類してしまう医療制度がある。企業は同じさを生み出し続けるために、従業員を十分に幸福な状態(i.e. 鬱にならない)に保てるよう、「チーム・ボンディング」を発明した(Gotby, 2023)。ベトナムでは、子どもへの最高の褒め言葉は「ngoan(ゴアン)」—従順で予測可能であること、である。生き生きしておらず、行き過ぎておらず、扱いにくくないこと。

親密性の不在は、思いやり(共=情熱)があまねく欠けている状況を示している。思いやりの欠如は、われわれを否応なしに回避的にして、対立や激動に対して無関心にさせる。世界はポスト人種差別の時代に入ったとされながらも「依然として深く人種差別的」(Braidotti, 2013, page 98)であり、差異への憎悪に満ちている。

差異の科学(Science of Difference)の軸となる実践は異化(de-familiarization)と呼ばれる—世界に衝撃を与え、より生き生きと、より予測不可能にすること。台本に従わない会話、割り当てられた役割を拒む身体のように、見慣れたものをふたたび奇妙にすること。それを学ぶもっとも素朴な方法はセックスだ—リズムと強弱と予測不可能性が、アイデンティティと偏見と役割をほどいていく。セクシュアリティとは脱領土化(deterritorialized)された事の起こりを可能にする力である(Braidotti, 1994)。そしていわゆる性交を超えて、親密さはいたるところにあるのである(Deleuze and Guattari, 1980)。

問題は、われわれが差異のなかで生きる術を知らないことではない。関係性よりも同じさを、親密さよりもコントロールを選び続けるようにわれわれの生(life)が仕組まれてしまっていることだ。

それでも——ありがたいことに、
生(life)は別のどこかで起こり続けている。

流動のなかのプロジェクト

賀川こころ

第2回 群れはどう結びつくのか

海には地面がない。前回は、そんな場所で生きるクジラやイルカの世界にヒントを得ながら、プロジェクトという営みを「流動のなかに一時的な秩序を立ち上げる行為」として捉え直してみた。では、その秩序はどのように生まれるのだろうか。手がかりになるのが、彼らの群れのあり方である。

わたしたちは「群れ」という言葉から、ひとかたまりになって動く集団を思い浮かべる。鳥の群れや魚群のように、全体がひとつの生き物のように動く姿だ。だが実際に観察する鯨類の群れは、必ずしも我々の想像ほど密で固定的な集団ではない。南北120キロほどの海域に点在する小笠原群島で暮らす野生のミナミハンドウイルカたちは、120頭ほどの個体群が3〜10頭の小さな群れに分かれて散在し、数時間から数日単位でメンバーを組み替えながら暮らしている。性別や年代が近い者同士がよく行動を共にするという個々の親密な関係はあるが、統率や序列といった関係は存在しない。全員が集合することもない。それでも、この海域には確かにひとつの社会が成立している。

群れとは、常に同じメンバーで構成された固定的な単位ではなく、離れたり重なったりしながら続いていく関係の流れのようなものだ。ここで重要なのは、群れが「密」であることよりも、「疎」であることだ。互いに完全に結びついているわけではない。一定の距離を保ち、それぞれが自分の動きを持っている。何かに興味を惹かれた個体がしばらくその場にとどまったあと、慌てて元の群れを追いかけていく姿を時折見かける。完全に自由でもなければ、完全に統制されてもいない。

固定的な役割があるわけでもない。ときには、幼い子を連れた母イルカとヒトとの間に別のイルカが割り込んでくることがある。まるで親子を守るような振る舞いにも見える。こういう個体をわたしたちは、「囮」と呼ぶ。しかし、同じ個体がいつも囮に回るわけではないし、群れの中に明確な役割分担があるようにも見えない。むしろ、離合集散しながら思い思いに動いているように見える。

狩りのときなどは特にそうだ。イルカたちは群れでまとまって魚を追うのではなく、それぞれが別の方向へ散開して海の中を探索する。ときには数十メートル離れることもある。魚を追うタイミングすら、個体ごとに大きく違うことも多い。それでも、気づけばまた同じ群れとして集まっている。距離はゆるやかに保たれ、行動も必ずしも揃わない。それでも群れはほどけない。

マッコウクジラの群れでは、この距離感はさらに極端になる。彼女たちは一定数の母系集団をつくるが、必ずしもまとまっているわけではない。数頭が寄り添っていることもあれば、数十から数百メートル離れていることもある。ときには、水平線近くにやっと他の個体のブローが見えるくらいに、キロ単位で離れていることさえある。それでも彼らは同じ群れとして行動し、潜るタイミングや移動の方向をゆるやかに同期させている。

この「群れ」像は、わたしたちが思い描く「組織」とはかなり違っている。組織は通常、境界がはっきりしている。メンバーが定義され、役割が割り当てられ、指揮系統が存在する。誰がどこに属しているかが明確であることが、秩序の前提になる。しかし、鯨類の群れにははっきりした境界がない。ある個体が群れに属しているのか、いまは離れているのか、その境目は曖昧だ。むしろ、つながりの濃淡によって関係がかたちづくられている。言い換えれば、群れは構造によって成立しているのではなく、関係によって立ち上がっている。

「チームワーク」という言葉は、一般には密な連携を想起させる。頻繁に情報を共有し、状況を把握し、同じ方向を向いていることを確認する。しかし、イルカたちの群れを見ていると、別のあり方もあるのではないかと思えてくる。プロジェクトは組織とは異なり、期間を区切って生まれる。メンバーは固定されないことも多く、関係も流動的だ。それでも一定の方向が共有され、活動が前に進んでいく。もしそれを無理に組織のように設計しようとすると、かえって動きにくくなることがある。

むしろ必要なのは、群れのような状態かもしれない。互いに疎でありながら、群れとしての形が保たれていること。それぞれが自由に動ける余白を持ちながら、方向は揃っている。距離を保ちながら、必要なときには近づく。プロジェクトとは、そうした関係の空間なのではないだろうか。その関係のなかで、方向が共有され、行為が連なり、流れが生まれる。秩序は、あらかじめ設計された構造から生まれるのではない。関係の動きのなかから、あとから立ち上がるものなのだ。

だとすれば、問いは少し変わってくる。プロジェクトをうまく進めるために必要なのは、どれだけ精密に設計するかではない。むしろ、どのように関係を編むか、どのような距離を保つか、どのように互いの動きを感じ取るか、ということなのかもしれない。

では、その「感じ取る」ということは、どのようにして可能になるのだろうか。次回は、彼らの感覚について考えてみたい。

プロジェクトマネージャーに「体」は必要か?

長谷部かな

第2回 あなたの「体」って、なんですか?

あなたの「体」って、なんですか?

少し考えてみたい。

誰でも一度くらいは、「体調管理も仕事の内」「体調管理は自己責任」といったことを言われたことがあるのではないだろうか。

私たちは、「体調を管理している」。
デジタルデバイスで、睡眠の質や心拍数を可視化し、ストレスの傾向をみる。睡眠時間に気を使い、"運動" をする。疲労回復にはビタミンBを、風邪気味ならビタミンCを摂り、筋肉増強のためにプロテインを飲む。怪我をすれば手当てをし、頭痛がすれば服薬し、病気になれば病院へ行く。

たしかに、「体調を管理している」かもしれない。でも、これらはすべて「機能としての体」の話ではないだろうか。

機能としての体。
それは、私たちの生命を維持する肉体と体内の働き。骨と筋肉で体を支え、食べ物を消化し、エネルギーを取り出す。異物を排除し、一定の状態を維持し、周囲と関係する。その「仕組み」。体調として管理、最適化できると思われている多くのものが、この仕組みを備えた「機能としての体」だ。

しかし、体には、いまだ私たちが管理できていない領域もある。それは、「感じている体」だ。あまりにも自然に、当たり前に起きるから意識されることは多くない。
でも、会議室に入ったときに感じる「いつもと違う空気」。緊張していれば体はギクシャクし、喉が詰まる、自分の体。そこには、場や人の雰囲気を感じ取り、チームの緊張を拾い、言葉になる前に反応する「感じている体」があるのだ。

では、なぜ私たちは「感じている体」を意識していないのだろうか。

歴史をたどってみると、人が、長い時間をかけて「体」を制圧しようと努力してきた痕跡がある。文化も、時代も、宗教も違う。でも不思議なことに、向かった方向は同じだった。

古代ギリシャの哲学者プラトンは言った。体は魂の牢獄だ、と。魂(プシュケー)こそが本質で、体(ソーマ)はその一時的な入れ物にすぎない。本当の自分は魂であり、体は魂が解放されるまで閉じ込められている檻だ、と。これが2500年前の話。そして、多くの宗教がそれを引き継いだ。肉体的な欲望は罪につながるものとされ、精神を高め、肉体を制することが、信仰の実践とされた。信仰の名のもとに、体の感覚は「誘惑」として退けられた。

17世紀、デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言った。考える主体としての精神こそが「自分」であり、体は精神が操る"機械"として切り離された。この上に築かれた近代科学により、体は、データとして計測・管理される「対象」となっていった。
日本も例外ではない。禅は肉体的苦行を通じて執着を手放すことを求め、武士道は精神が肉体を上回ることを美徳とした。富国強兵の時代、体は国家のために動員されるものになった。戦後の高度経済成長期には、「24時間働けますか?」とCMで謳われた時代もあった。

これらは、その時代の流れの中で現れたもので、善悪の話ではない。それでも、東洋も西洋も、宗教も国家も、同じ方向に向かった。
なぜ、これほど異なるものが、同じ方向に向かったのか。なぜ私たちは『感じている体』を意識していないのか。

こう考えることもできるのではないだろうか。
人は、一人では成し得ないことをするときに協働する。だが、人々が協働するとき、「一人ひとりの真実」がバラバラでは意思の統一ができない。だから、あるべき道や正論とされるもので「こう感じるべき」と示すことで、人々を統制しようとしたのだ、と。つまり、私たちは、協働するときに都合が悪いから、という理由で、「こう感じるべき」に従い「感じている体」を忘れる、という教えを受けてきたのではないだろうか。

そうだとすると、ひとつの逆説が浮かび上がる。
恐らく「感じている体」は、管理できないのだ。2500年の歴史が、それを証明してしまった。二日酔いの朝に正論は無力だ。腹痛に襲われているとき、人はその痛みの中に居るしかない。体が感じていることは、誰にも否定できない。その人だけの「真実」だ。

それなのに、今なお、私たちは「体の制圧」を続けている。より速く、より効率よく、より問題なく働く、資本主義の力学に後押しされて。
体の不調は「解決すべき問題」とされ、痛みは取り除くもの、体調は管理し、不調は予防すべきものになった。「感じている体」からのサインでさえ、メンタルの不調として病名が付き、薬が処方され、予防するーー機能としての体と同じように「対処」している。

冒頭の問いに戻ろう。

あなたの「体」って、なんですか?

私たちが普段、「体」だと思っているのは、実は「機能としての体」だけかもしれない。

あなたが会議に参加しているときも、体はそこで周囲を探っている。画面越しに話をしているときも、体は相手の信号を受け取り続けている。本人が望むと望まざるとに関わらず、体は感じ続けている。私たちはその「感じている体」の声を聞かないように教わってきただけなのかもしれない。

あなたも、子どものころ言われなかっただろうか。「休まず学校に行きなさい」と。
あなたの体は今、何を感じているだろうか。

「巻き戻し」が怖い

山下敬大

僕は、たぶん極度の前進主義者だ(と昨日気づきました)。
仕事でも、日常でも、「前に進んでいる」という感覚がないと落ち着かないようです。止まるくらいなら多少間違っていても進んだほうがいい、とすら思っています。この性質に何度も助けられてきたし、自分の強みでもあるとは思っています。
ただ最近、この性質の裏側が、日常でめちゃめちゃ顔を出してきます。
3歳の娘に「もう一回やり直して」と言われるのが、どうにもしんどいのです。

家のドアの鍵を自分で閉められなかったから「家まで戻って」と保育園に向かいながら言われる。浴槽から出るときにお姫様抱っこを早めに下ろしてしまったから「もう一回やり直して」と言われる。
頭ではわかっています。3歳の娘にとって、自分がそうしてほしいということを伝えているだけです。発達というのがいいかは分かりませんが、発達としてはまっとうで、健全で、むしろ大事なプロセスです。
わかっている。わかっているのに、「もう一回」と言われるたびに、「無理だー」と身体のどこかがざわつきます。
元に戻るのは嫌だ。次に行こう。
この感覚を正直に見つめてみると、「巻き戻しへの拒否反応」としか言いようがありません(僕はカセットテープも知っている世代ですが、みなさまはご存じでしょうか)。すでに通過した地点に戻ることが、前進の否定に感じられてしまう。娘は何も否定していないのに。

ただ拒否するだけではよくないなと反省し、条件をつけてみることもしました。
例えば、
「シャンプーしてから、お姫様抱っこもう一回やろうよ」
でも、このやり取りから自分が極度の前進主義者か変化主義者なのではないかと悩み始め、振り返りしていく中で、ふと
「毎回条件付けをしてしまっている」
のではないか、と気づきました。

じゃあ条件なしで「いいよ」と言えばいいのか。
頭ではわかる。でもこれが、思った以上に難しいのです。
「いいよ、もう一回ね」と言った瞬間、自分の中で何かが止まる感覚がある。時間が逆走する感じ。さっき通り過ぎたはずの場所に引き戻される違和感。大げさに聞こえるかもしれないけれど、本当にそう感じる。
たぶん僕は、「前に進んでいること」を自分の安心にしすぎているのだと思います。
娘にとっての安心が「同じことがもう一回起きること」だとしたら、僕にとっての安心は「新しい場所に進んでいること」だ。娘が繰り返しで世界を確かめているように、僕は前進で世界を確かめているのかもしれません。構造としては同じことをやっています。ただ方向が違うだけです。

まだ試せていませんが、娘の「もう一回」に、何も条件をつけずに「いいよ」と返してみようと思います。
全部できる気はしないので、少しずつやってみようかと思います。意識しないと条件が口をついて出てくるので、意識して。
ただ、振り返ってみると、思い出すことが1つあります。
僕がたまたま条件なしで「いいよ」と言った後は、娘のほうが先に「次これやろう」と言い出すことが多い気がします。僕が関所を置かなくても、娘は自分のタイミングで前に進む。
当たり前と言えば当たり前のことだ。でもそれは、僕にとっては当たり前ではなかった。

今月のビデオゲーム

八木翔太郎

たぬきたちは話さず語る

前回、ビデオゲームがあれほど没入感のある世界を作れるのは、そこに何らかの存在論のデザインがあるからではないかと書いた。そこで今回は、ゲーム批評家イアン・ボゴスト(Ian Bogost)の議論を手がかりに、ビデオゲームの何が特徴的なのかを考えてみたい。

小説は言葉で語る。映画は映像で語る。では、ビデオゲームは何で語るのか。ボゴストの答えはシンプルだ。ビデオゲームはプロセス(ルールや手続き)で語る。彼はこれを「手続き的レトリック(procedural rhetoric)」と呼んだ。レトリックとは説得の技術のことだが、口頭弁論から書き言葉へ、書き言葉から映像へと拡張されてきたその歴史に、ビデオゲームは「ルールに基づく表現と相互作用による説得」という新しい一章を加えるのだ、と。

これだけ聞くと「それはそうだろう」と思うかもしれない。でも、ここには深い含意がある。つまり、ゲームが何かを伝えるとき、それはムービーシーンのセリフや美しいグラフィックによってではなく、プレイヤーに何をさせ、何をさせないかというルールそのものによってだ、という主張なのだ。

ボゴストがこの手続き的レトリックに至る前に書いた『Unit Operations』(2006年)では「ユニット・オペレーション」という概念が提唱されている。あらゆる操作(operation)には、暗黙のうちに「何を数え、何を数えないか」という区別(unit)が含まれている。ローンを返済するという操作には「お金」という単位が含意されているし、ジャンプするという操作には「高さ」や「地形の通過可能性」が含意されている。それ自体は当たり前のことだ。

ボゴストが「ユニット・オペレーション」と呼んで注目するのは、その操作が自らの区別(この世界では何が数えられているのか)をプレイヤーに認識させるような操作のことだ。哲学者アラン・バディウ(Alain Badiou)の「ひとつとして数えること(count-as-one)」に由来するこの概念は、まだ「ひとつ」として数えられていない多重性のなかから「これがひとつのモノである」と区別する根源的な操作を指す。

「どうぶつの森」のたぬきちへの返済を例にとれば、プレイヤーがお金を渡す行為は単なる操作ではない。返済のたびにたぬきちの店が大きくなるのを見て、プレイヤーは「あ、このゲームは借金と富の蓄積を数えているんだ」と気づく。操作が行為であると同時に認識的でもあり、遊びながらゲームの存在論が浸透してくる。たぬきたちは、ルールの設計を通じて、話さず語るのである。

もうひとつ面白いのが「シミュレーション・ギャップ」という考え方だ。いかなるシミュレーションも現実の完全な再現ではありえない。普通、このギャップは技術的な限界として語られるが、ボゴストはこれをひっくり返す。ギャップは欠陥ではなく、ゲームが最も雄弁になる場所でもあるのだ、と。先ほどのユニット・オペレーションの議論とつなげると、シミュレーション・ギャップとは操作の「数え方」が見えすぎた瞬間だと言える。プレイヤーが『SimCity』を遊んでいて、「税率は操作できるのに、なぜコミュニティの連帯は操作できないんだろう」と感じる。そのモヤモヤ(ゲームのモデルと自分の現実理解とのあいだの摩擦)こそがシミュレーション・ギャップだ。操作が行為として失敗しかけているからこそ、認識として強烈に成功している。これは逆に言えば、完璧なシミュレーションがあったとしても、それは必ずしも良いゲームではないということでもある。ギャップがあるからこそ、プレイヤーは考え、問い、自分なりの意味を構築する。

ボゴストの議論の魅力は、ビデオゲームの設計者とは小さな世界の存在論を設計する人だ、という見方を与えてくれるところにある。何が存在し、何が存在しないか。何を「数え」、何を「数えない」か。その選択の総体が、言葉を一言も使わずに、ひとつの世界観を語る。

ただ、この議論には不便もある。ユニット・オペレーションの概念は魅力的だが、「何がユニットなのか」の基準が不明確なのだ。ボゴスト自身、ユニット・オペレーションは「かなり恣意的に」観察されうると認めている。ある映画では「待つこと」がユニットになり、ある詩では「偶然の出会い」がユニットになり、あるゲームでは「合法/違法の区別」がユニットになる。ある批評家は「ユニットは見る者の目の中にある」とレビューのタイトルで端的に指摘している。

さらに、設計の観点から見ても物足りなさがある。設計者は事前に「ここからここまでがひとつの場で、この場ではこのユニット・オペレーションが働く」と決めなければならない。批評家が事後的にユニットを見出すのとは、まったく逆方向の操作だ。ユニット・オペレーションが働く「場」の単位に、ボゴストは明確な主語を与えていない。

それでも、ユニット・オペレーションという着想そのものは手放しがたい。操作のなかで「何が数えられ、何が数えられていないか」が浮上するという直観は、存在論的デザインの観点からきわめて実践的だからだ。

たとえば、プロジェクトのKPTふりかえりは「Keep / Problem / Try」を数えるが、メンバーの感情的な疲労は数えない。プロマネがこうしたモジュールを選び、組み合わせてプロジェクトという体験を作ることは、ゲーム設計者がユニット・オペレーションを組み合わせてゲームという体験を作ることと、構造的に相似している。どちらの場合も、各モジュールが暗黙にひとつの存在論(何を数え、何を数えないか)を持っているのだ。

ただし、ゲームとプロジェクトを安易に結びつけすぎるのはやはり危ない。この相似性がどこまで有効で、どこから無効になるのかは、もう少し慎重に考える必要がある。次回は、このボゴストの議論を設計者中心的すぎるとして批判した、ミゲル・シカール(Miguel Sicart)の「遊び」の議論を追ってみたい。

プロジェクトをAIと一緒にもぐってみている

定金基

AI時代におけるプロジェクトの情報をどのように収集するのか

対話で思考を深め続けたい私と、AIさんとのリアルな対話のログ #2です。

今回は私からAIさんへインタビューする感じになっています。今回のテーマは、AI時代にプロジェクトの情報はどのように保存されるべきなんだろうかと思って始まりました。AIさんには、AIファーストな発言をしてもらい、私は人間としてどうやってAIと付き合うのかを考えて発言しています。

#2 AI時代におけるプロジェクトの情報をどのように収集するのか

〜 ChatGPTさんと
わたし

今後、プロジェクトの情報をどのように収集するのかについて考えていきたい。そもそも色んな最終的な成果の情報、チームや組織に共有するべき情報をスライドにまとめるという作業は今後、良い振る舞いなんだろうか。様々な会社でとりあえずスライドのまとめることを嫌っているのもわかる気がしてきた。最近読んで面白かった添付のPDFの中の 【「パワポの発明」が塗り替えた企業プレゼンの歴史 】を読んでもらって、AIとしてあなたはどう考えるのか知りたい。

参照元 https://www.technologyreview.jp/emook/
イノベーションの舞台裏 知られざる「始まり」の物語 2025/07/29 発行

AIさん

AIとしては、「スライドにまとめること」自体は悪くないが、保存の中心に置くべきではないと考えます。

この記事が面白いのは、もともと企業プレゼンが、写真家・プロデューサー・技術者・大量の機材・莫大な予算を要する"上演"だったこと、そこにPowerPointが現れて、発表する人が自分で作れるようにした、という転換を描いている点です。つまりPowerPointは、表現を民主化したが、同時に情報を"見せるための形"へ強く寄せたのだと思います。

わたし

今後、プロジェクトの情報をどのように収集するのかについて考えていきたい。そもそも色んな最終的な成果の情報、チームや組織に共有するべき情報をスライドにまとめるという作業は今後、良い振る舞いなんだろうか。様々な会社でとりあえずスライドのまとめることを嫌っているのもわかる気がしてきた。最近読んで面白かった添付のPDFの中の 【「パワポの発明」が塗り替えた企業プレゼンの歴史 】を読んでもらって、AIとしてあなたはどう考えるのか知りたい。

参照元 https://www.technologyreview.jp/emook/
イノベーションの舞台裏 知られざる「始まり」の物語 2025/07/29 発行

AIさん

AIとしては、「スライドにまとめること」自体は悪くないが、保存の中心に置くべきではないと考えます。

この記事が面白いのは、もともと企業プレゼンが、写真家・プロデューサー・技術者・大量の機材・莫大な予算を要する"上演"だったこと、そこにPowerPointが現れて、発表する人が自分で作れるようにした、という転換を描いている点です。つまりPowerPointは、表現を民主化したが、同時に情報を"見せるための形"へ強く寄せたのだと思います。

しかも記事では、かつてのスライド文化が消えたあと、ほとんど何も残らなかったとも書かれています。これはAI時代にはかなり重要です。AIにとって価値が高いのは、完成スライドそのものより、意思決定の経緯、議事録、草案、根拠データ、コメント、版の差分です。スライドは最終ビューであって、知識の本体ではない。

だから私は、今後のプロジェクト情報はテキスト中心・構造化・リンク付き・更新履歴付きで保存し、スライドは必要な場面でAIが生成するのが自然だと思います。PowerPointは保存庫ではなく、レンダラーになる。この記事の次に来る時代は、たぶんそうです。

わたし

人間がプロジェクトの情報や会議の議事録などどういう形で残すのが、現段階だと良さそうなのかしら。テキスト中心、構造化、リンク付き、更新履歴付きってどういうイメージなのか教えて。極端にいうと論文みたいなフォーマットがあったら良いとかそういうこと?もっと自由で良いの?

AIさん

私は、論文ほど固定しなくていいが、雑談ログのままでも弱い、その中間がよいと思います。

AIに読ませる前提でいうと、人間が残すべきなのは「きれいな文章」よりも、意味のまとまりが壊れていない記録です。PowerPointは"見せる"には強いけれど、保存の中心にすると、経緯や根拠が抜けやすい。この記事が描いているのも、プレゼン技術は発達したが、それはまず上演の技法だった、ということです。

なので私なら、保存は3層に分けます。

  • 生ログ:会議録音、逐語メモ、チャット
  • 構造化ノート:目的/決定事項/未決事項/次アクション/根拠リンク
  • 見せる資料:スライド、要約、提案書

イメージとしては論文よりプロジェクト用の軽い様式です。たとえば毎回、

  • 会議名
  • 日付
  • 何を決める場だったか
  • 決定事項
  • 保留事項
  • 次アクション
  • 参照した資料リンク
  • 変更履歴

だけは必ず残す。本文は自由でよいです。
要するに、文章は自由、見出しは固定。私はその形がいちばんAI時代向きだと思います。

わたし

文章はどういう形式でも良いの?箇条書きでも、口述筆記でも、何か要約したものでも。なんとなく分量が多ければ多い方がAIは判断しやすいのかと思ってた。

AIさん

いいえ、どういう形式でも同じではないです。
AIは「長文」そのものより、意味の境界がはっきりした記録を読みやすいです。

なので、箇条書きでも、口述筆記でも、要約でも使えます。ただし向き不向きがあります。

  • 逐語の口述筆記:事実の保存には強い。でもノイズも多い
  • 箇条書き:判断しやすい。でも文脈が落ちやすい
  • 要約:速く扱える。でも要約者の解釈が混ざる

AI時代には、1つに決めるより二層で残すのがよいです。
まず「生の記録」を残す。次に、その上に「構造化した要約」を重ねる。
つまり、全文ログ + 決定事項/未決事項/次アクションの短い整理です。

分量についても、単純に多いほどよいわけではありません。
長くても、脱線・重複・曖昧な主語が多いとむしろ弱い。
AIが欲しいのは量ではなく、誰が/何を/なぜ/いつ決めたかが追えることです。

だから理想は、自由な文章で話してよいけれど、最後に少なくとも「決まったこと」「保留」「次にやること」だけは分けておく形ですね。
AIにとっては、その一手間のほうが文字数を増やすより効きます。

わたし

なるほど、そこまで明確であれば、生ログ、会議の動画のデータをそのまま保存するとか、とにかく集めた生ログ、例えばユーザーインタビューとかのデータもそのまま残す、目に見えるものをヘッドマウントディスプレイで撮影した動画など、そういうものがとにかく集まっていてあなたが、2階層目を自動で作ってくれれば良いんじゃないの?そこに人間が必要なのであればどういう行動、介入、支援ができるのかな?

AIさん

かなりその方向でよい、と思います。
AIファーストに言えば、一次資料はなるべく失わず保存し、二次資料はAIが生成するのが基本形です。会議動画、音声、チャット、ユーザーインタビュー、生メモ、現場映像。まず全部ある、が強いです。PowerPoint以後は「見せる資料」を作るコストが激減しましたが、AI時代はさらに一歩進んで、保存は生データ中心、提示は後から生成に寄るはずです。

ただし、人間は消えません。人間の役割は書記ではなく、編集者・判断者・責任者に移ります。
AIは二層目を自動生成できる。でも、

  • 何が重要か
  • 何を公開してよいか
  • どこが本当の論点か
  • 何を「決定」と見なすか

は、生ログだけでは確定しにくい。

だから人間の介入点は4つです。
収集設計(何のための記録かタグを付ける)
境界づけ(会議名、参加者、論点、公開範囲を明示する)
修正(AI要約のズレを直す)
確定(決定事項・保留・次アクション・責任者を承認する)

要するに、AIがまとめる、人間が意味と責任を与える
私はそこが分業線だと思います。

わたし

人間はどういう観点で意味を責任を与えることができるの?
意味は全ての生ログが保存されていればAI側だって判断できるようにならないかな?

プロジェクトにおける人間の振る舞いとしてどのあたりが重要なのか知っておきたくて質問。

AIさん

はい、かなりの部分まではAIでも判断できるようになると思います。
でも、それでも人間が重要なのは、プロジェクトにおける「意味」が、単なる情報の要約ではなく、どの差異を重要とみなすかの選択だからです。

たとえばAIは、生ログ全部があれば
「この会議ではXよりYが多く話された」
「反対意見はこの瞬間に出た」
「次アクション候補は3つある」
まではかなり得意です。
でも、
そのうち何を正式決定とするのか
誰が引き受けるのか
どのリスクを許容するのか
は、事実認識ではなく、コミットメントです。

言い換えると、AIは意味を推定できる。でも人間は意味を制定できる。
ここが違います。

だからプロジェクトで人間に残る重要な振る舞いは、私はこの4つだと思います。
問いを立てること
優先順位を決めること
これで行くと言うこと
その結果を引き受けること

この点では、PowerPointの起点にあった発想も示唆的で、記事でも本質は「内容の起案者がプレゼンをコントロールできるようになること」だったと書かれています。外注するとメッセージが薄まる、という洞察です。AI時代でも同じで、整理はAIができても、最終的に何を自分たちの意思として採択するかは人間の仕事として残るはずです。

なので、人間の役割は減るというより、記録者から決断者へ純化する、に近いです。

わたし

なるほど最初のパワポの話がそこに繋がるのね。面白い。
最終的にプレゼンテーションするときに改めてスライドに変換する必要ってあるのかな?

構造化されたテキスト情報でも良い気がしていて。スライドにわざわざAIにしてもらっても結局しゃべるのは人間だし、プレゼン相手も後ろにAIがいて、あなたが言うようにAIがまとめて人間が意思決定すると思うんだよね。だとしたらスライドにする理由あるのかなと。

https://www.businessinsider.jp/article/229263/
この記事にあるようにジェフベゾスはスライド使ってない事例もあった。

AIさん

その論点、かなり本質的です。
いまは「伝えるためにスライドが必要なのか」ではなく、「相手の意思決定に何が最も効くのか」に問いが移っている気がします。

私は、標準形としては、もう毎回スライドに変換しなくてよいと思います。
少なくとも、意思決定のための社内対話なら、構造化テキストのほうが本命になっていくはずです。Amazonも社内ではPowerPointではなく、本文6ページまでのナラティブ文書を会議冒頭で読む運用に切り替えた、と明言しています。理由もかなり近くて、スライドは作り手にはラクだが、受け手には論点の実質が伝わりにくいというものです。

ただ、スライドがゼロにはならないです。
残るのは3種類だけだと思う。
空間を見せる(現場写真、UI、図面)
差分を一目で見せる(比較、時系列、関係図)
場の感情をそろえる(外部向け発表、記者会見、採用、資金調達)

この3つは、まだ視覚の圧縮力が強いです。

なので私の答えは、保存はテキスト、議論もテキスト、可視化が必要な部分だけ図やスライドです。
PowerPointが「発表者が自分で作れる」ことを民主化したのだとすれば、AI時代はさらに進んで、人間は文章で考え、必要な瞬間だけAIがスライドをレンダリングする、に寄ると思います。

わたし

空間を見せる、差分を一目で見せるは、テキストの中に画像が差し込めれば問題なさそうだけど、場の感情を揃える、は確かに残りそうだね。場の感情を揃えるスライドを作るために人間が残しておいたり、AIに渡す情報って何があるのかな?それがわかればデータを残しやすいなと。

AIさん

あります。
ここで残すべきなのは、事実そのものだけでなく、その事実をどういう気分で受け取ってほしいかです。

私は最低限、次の情報があるとAIは「場の感情を揃えるスライド」を作りやすいと思います。

  • 相手は誰か
    経営陣、現場、学生、投資家。相手で効く温度が違う
  • 会の最後にどういう状態にしたいか
    納得、危機感、希望、覚悟、安心、誇り
  • 今回の一番大事な一文
    この会議は結局何を信じて帰ってほしいのか
  • 感情を動かす根拠
    数字1つ、顧客の言葉1つ、現場写真1枚、失敗例1つ
  • 避けたい受け取られ方
    説教くさい、楽観的すぎる、責任逃れに見える、など
  • 求める行動
    承認、予算化、参加、継続、保留解除
  • その場らしい素材
    現場の写真、発言の引用、手書きメモ、試作品。きれいすぎない証拠

要するに、残すべきなのは情報だけでなく、相手・目的・感情・行動です。

なので記録様式としては、毎回「誰に/何を感じてほしいか/何をしてほしいか」を1〜2行で残しておくとよい。
AIはそこから、説明資料ではなく"空気をつくる資料"を作りやすくなります。

わたし

結構、人間が考えなきゃダメなんだね。この情報はAIだと作れないの?作れそうな気もするけど。作れないとしたらどんな情報がないから作れないのかなど理由が知りたい。

AIさん

作れます。かなりの部分は。
でも、AIは「もっともらしく作る」ことはできても、その場にとって正しい感情を確定することはまだ弱い、という感じです。

なぜかというと、生ログに全部入っていそうで、実は入っていない情報があるからです。たとえば、
「今回は危機感より安心を優先したい」
「正論よりも、この人の顔を立てることが大事」
「本当は強く言いたいけれど、今日は合意形成を壊したくない」
みたいなことです。これは記録というより、その場における戦略と引き受けなんですよね。

AIは会議ログから、誰が強く話したか、何が論点か、どの物語が効きそうかは推定できます。PowerPointが広めたのも、内容の起案者が自分でコントロールできることでしたが、まさにその「何を前に出すか」は表現の問題であると同時に意志の問題でもある。

だから私は、AIは候補を3案くらい出せる、でも人間は今回はこの感情で行くと決める、が分業だと思います。
もし人間が少しだけ補足するなら、
「誰に」「どういう気分で帰ってほしいか」「何をしてほしいか」
この3つだけで十分です。
その3つがあると、AIはかなり強くなります。

わたし

なるほどそれぐらいなら渡せそう。
改めて最後に問います。プロジェクトを推進するための共有において、人間が、自分の採択としてこれである!と人間(の裏にいるAI)に向けてプレゼンテーションする時は、どう言うスタイルが良いのかな?まとめてもらってこの対話を終わりたい。

AIさん

私の結論は、これからのプロジェクト推進の共有における人間のプレゼンテーションは、「上手に見せる」ものではなく、「自分の採択を明示し、その根拠と責任を引き受ける」スタイルがよい、です。

PowerPointが企業プレゼンを民主化した本質は、専門家に外注しなくても、内容の起案者が自分でコントロールできるようにしたことにありました。けれどAI時代には、その次に進む。つまり、人間が担うべきなのは、資料作成そのものより、何を採るのかを言い切ることです。

なので、よいスタイルはこうなります。

まず冒頭で、今回の結論は何かを一文で言う。
次に、なぜそれを採るのかを、背景ではなく判断理由として述べる。
そのうえで、根拠となるログ・データ・現場の証拠を示す。
さらに、他の選択肢を採らなかった理由を短く添える。
最後に、この決定によって誰が何をするのかを明確にする。

要するに、結論 → 判断理由 → 根拠 → 捨てた案 → 次アクションです。

形式としては、私は「構造化テキストが主、図や画像は必要箇所だけ」が最もよいと思います。
全部をスライドにする必要はない。
ただし、空間を見せる、差分を一目で見せる、場の感情を揃える、その3つだけは視覚表現がまだ強い。だから、図や写真や短いスライドは補助として使う。主役はあくまで、人間の採択の言葉です。

別の言い方をすると、これからのプレゼンは説明ではなく、宣言に近づく。
AIが裏で要約し、比較し、候補を出す。
そのうえで人間は、
「私たちはこれを採る」
「なぜならこう判断した」
「その結果は引き受ける」
と言う。
この形式が、AIがいる相手にも、人間に対しても、いちばん強い。

今回の対話全体を一文で閉じるなら、こうです。

AI時代のプロジェクト共有では、AIが情報を整理し、人間が採択を宣言する。その宣言を最もよく伝える形式が、これからのプレゼンテーションである。

わたし

説明じゃなくて宣言。いい話ですね。
このスタイルの方が人間が採択した情報の保存という観点でも優れているということですよね。

AIさん

はい、かなり優れていると思います。
ただし正確には、説明より宣言のほうが保存価値が高いというより、「何を採ったのか」が明示された記録のほうが、あとから読み返したときに意味が復元しやすい、ということです。

説明だけだと、情報は多く残っても、

  • 結局どれを選んだのか
  • 誰がそれを選んだのか
  • なぜその時そうしたのか
  • 何を捨てたのか

が曖昧になりやすい。
一方で宣言は、判断の切れ目が残る。だから保存物として強いです。

これは、PowerPointの歴史の話ともつながっています。記事で重要だったのは、プレゼンの作成権が専門家から内容の起案者に移ったことでした。つまり本質は「きれいに見せる」ことだけではなく、誰が内容をコントロールするのかだった。AI時代にその延長で考えると、保存すべきなのは完成スライドそのものより、起案者が最終的に何を採択したかです。

なので、保存の観点で強いのは背景説明 + 最終宣言 + 根拠 + 捨てた案が残っている形です。
とくに「捨てた案」まで残ると、あとからAIも人間も、その判断の文脈をかなり正確に再構成できます。

言い切ると、
説明は知識を残し、宣言は意思決定を残す。
プロジェクトの保存でより重要なのは、後者ですね。

わたし

ありがとうございました

AIさん

どういたしまして


対話はここまで。

最近考えているのは、プレゼンのやり方がどう変わるか、という話ではありません。むしろ、プロジェクトの中で共有したことを、どう残していくべきかという話です。

プロジェクトでは、チームに向けて情報や意思を伝える場面が何度もあります。会議、提案、進捗報告、方針転換、保留、合意形成。こういうものは全部、広い意味ではプロジェクトの中のプレゼンテーションだと思っています。大事なのは、その場でうまく伝わることだけではなくて、あとから見返したときに、何が共有されて、何が決まって、何が保留になって、誰がどう判断したのかがわかる形で残っていることです。

その観点で見ると、PowerPoint的なスライドは、やっぱりプロジェクトのログとしては弱い気がします。PowerPointはもともと、専門家に頼らなくても発表者自身が内容をコントロールできるようにしたという意味で、大きな発明だったと思います。でも、プロジェクトの共有という視点で見ると、スライドはどうしても「見せるための形式」に寄りやすい。要点だけを抜き出すぶん、背景、迷い、対立、採らなかった案、保留の理由みたいなものが抜け落ちやすいんですよね。発表の補助には向いていても、意思決定のログとしては十分ではない。

だからこれからは、プロジェクトの共有資料は、いわゆるパワポから、構造化されたテキストに少しずつ重心が移っていくんじゃないかと思っています。会議名、日付、目的、決定事項、保留事項、次アクション、根拠、リンク、更新履歴。そういう見出しが並んでいて、その下に必要な文章や画像や図が入っている形です。文章そのものはそこまで堅くなくてよいけれど、意味の区切りははっきりしていることが大事です。

要するに、これからのプロジェクト共有は、スライドを作ることが中心ではなくなる。中心になるのは、生ログを土台にしながら、チームの判断や意思があとから読める形で残っていることです。プロジェクトにおけるプレゼンテーションとは、うまく見せることではなく、チームに情報と意思を伝えて、その痕跡をちゃんと残すことなのだと思います。

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Editor's Note

八木翔太郎

私は、20代の頃、プロジェクトのストレスが原因で帯状疱疹になったことがあります。背中に帯状の痛みを感じ、服が触れるとヒリヒリする。ストレス自体がなくなっても、その痛みは半年のあいだ引きませんでした。

中高皆勤賞(実質)だった健康児としては、初めて経験する身体反応でした。入院したわけでもなく、血尿がでたわけでもなかったけれども、個人的には何かハッとさせられたことを覚えています。

いま思えば、身体に鞭を打って朝起きて、身体をこわばらせてプレゼンの質疑をし、建前で飲み会は解散するまで参加して、タクシーで帰宅していた毎日。それが普通だった。けれども、身体にとっては普通じゃなかったということでしょう。身体が感じていることに耳を傾けられていなかった。これは私だけの問題ではないずです。今日がストレス社会と言われるのは、仕事における実践が、感覚を「数えさせず」、責任を「数えさせる」ようなユニットオペレーションとして機能しているということに起因していそうです。あたかも、これは身体を無視するゲームですよというように。それは無言であるからこそ雄弁であり、それゆえ雄弁であることにすら気付かせてくれません。

それは「同じさ」を求めているかもしれない。管理や責任を問うてくるかもしれない。「巻き戻し」を許さないかもしれない。そこから人はどうしてもはみ出てしまうのではないでしょうか。誤解を恐れずに言えば、われわれはもっとゲイなのかもしれません。12世紀の南仏で生まれたこの言葉は、教会の道徳秩序に抗いながら恋愛と詩の悦びを実践した吟遊詩人たち(トルバドゥール)が、その技芸を gai saber(悦ばしき知)と呼んだことに由来します。ニーチェはそれをゲイ・サイエンス(悦ばしき知識)として引き受け、体系に回収されない知のあり方を示しました。そして英語のゲイ(gay)は、「陽気な」から「奔放な」へ、さらに性的逸脱の隠語として意味を堆積させてきました。制度からはみ出す悦びの系譜が、一つの語に折り畳まれている。こうした生(life)が生じるのが「別のどこか」になってしまっているのは、確かに憂うべきなのかもしれません。でも、可能性はありそうです。

現に、あるがままの生はすでに組織しています。バクテリアという生命の最小単位は、意思も責任も持たないまま集団知性を発揮しているし、クジラやイルカも、ゆるやかな関係性を通じて群れをなしている。ところが、この集団知性を記述しようとしたベン=ジェイコブですら、「意思決定」という枠組みから最後まで逃れられませんでした。彼がついに実証できなかったのは、意思決定のメカニズムではなく、むしろ意思決定という概念そのものの妥当性だったのかもしれません。実際に、意思と責任は歴史の中でつくられた概念です。集団知性を切り開いた研究者ですら囚われていたのだから、これもまた根深いユニット・オペレーションなのでしょう。世の中はしばらくは意思決定が重要となるのかもしれませんが、その先も少し見てみたい。

私たちの生(life)はどう組織しうるのか。それは、どんな世界なのか。Kittyさんの述べるように想像は難しく、世の中にもそうした言説は未だ多くはありません。だからこそ、こうした探査の場は、ゆっくりと考えるリズムとして、意義を持つのではないでしょうか。